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そういえば人に魅了されたことがない

就職活動なんかで「尊敬する人は?」との問いに「両親」と答える人が少なくないらしい。
確かに両親は自分自身を育ててくれた張本人である。私自身も非常に「感謝」はしているが、別段「尊敬」はしていない。

自分を育ててもらったことと人間として尊敬できるのかどうかは、つながりこそあれ別問題である。「なるほど」と学ぶことも多かったが、「ああはなるまい」と反面教師として学ぶこともあった。


先日、幼馴染の結婚式があった。本当に立派な結婚式で食事もおいしかった。久々にいいものを食べたせいか翌日に激しく下痢をしたのは日々の食生活がいかに廉価なものなのかをうかがい知ることができるだろう。

その際、彼にとっての「恩師」が式に出席していた。スピーチも教育者として大変に学びになるものばかりで「自分の弱さともしっかりと今後向き合わねばならない…」というスピーチに思わず「なるほど」と考えさせられたわけだが、ふと私に「恩師」がいるのかというと特に見当たらなかった。

確かに、出会ってきた先生には恵まれていたと思う。印象に残っている先生はいたし、いい先生も多かった。「人間としてどうなの?」みたいな先生に出会うことはまずなかったし、あっても異常にタバコを吸っていたので口臭がえぐかった先生がいたくらいである。
じゃあ「恩師か」と言われると、「そこまでではない」というのが実感だ。

こんな風に考えてみると私自身、あまり人に「オチた」ことがないのかもしれない。多分それは宗教性みたいなものをかなり強く忌避しているからなのだろうと省察している。
私も若いころ一人の人間に心酔するみたいなことを試してみたものだが(例えば、私の敬愛する…みたいなやつ)、だいたい本を読んで「すげー!」となり、その後いろいろ調べてみると人間として問題があったり私生活が終わっていたりして「まあ文章であればなんでも書けるわな」と冷めきって大体その努力は徒労となっていった。

ある人に心酔している人はその人が言っていることのすべてを正しいと思いがちである。名経営者のひとの発言を金科玉条のように扱って疑いを一切挟まない人たちは多い。

かの有名な稲森和夫さんなんかは非常に多くの言葉を残しているが、そのまま真似して単なる「やりがい搾取」に陥っている会社はごまんとある。
稲盛さんという偉大な方だからこそ成立していたところは多分にあるのであって普遍的なものばかりではない。ただ頭を使わずに真似をすればうまくいくほど、世の中は単純ではない。

もちろん参考になる言葉はたくさんあるけれど、その時代や環境、そしてなによりその名経営者であるから成立していた哲学なのである。

とはいえ、そもそも人にオチなくてはならないわけでもないし、尊敬できる人がいないといけないわけではないし、恩師がいなくてはならないわけでもない。「理想がない」「尊敬できない」「恩師がいない」とブーブー文句を言うのではなく、そういった目指すべき姿がどこにもないのなら自ら理想を作り上げればいいだけの話である。人にオチていないやつだからこそ、自分自身の頭で考えることが求められているのだと思う。

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