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おじさんを反面教師に

会社にいると、本当にいろんな人が社会にいるものだということを痛感する。
信じられないほどにいい人もいれば、何を食べたらこんな人間性になるんだ?と思うくらいいけ好かないやつもいる。
特に顧客(私の場合は取材先だが)とのやり取りにおいて、それを強く感じたことがある人は多いだろう。

しかし、社内だって閉じた世界ではあるもののいろんな人がいる。
信じられないほどにいい人もいれば、何を食べたらこんな人間性になるんだ?と思うくらいいけ好かないやつもいる。

一つの部署にしばらくいると、そのうち「裏で馬鹿にされているおじさん」という存在が見つかる。
これは「裏で」というのが結構大事だ。表向き馬鹿にされているおじさんというのは、単に親しみやすかったりするケースも多い。もちろん本当に馬鹿だったりすることもあるのだが、まあそれはそれである。

「裏で馬鹿にされているおじさん」は利己的だったり、異常に感情的だったり、仕事のできがやけに悪かったり、コミュニケーションがさっぱりとれなかったり、といろいろな人がいるが、おおざっぱにまとめると人間として問題がある場合と実力がない場合に分かれる。

もっとも、年上でありそういうおじさんに限って短気だったりするケースが多く、実際のやり取りの際には慇懃無礼とも言えるほど「腫れ物を扱う」ような対応をされている。

ただ、現場では「みんなからバカにされているのに本人は気づいていないしでかい態度をとっているのでなおさらバカだ」などと言われ続けている。
おじさんに同情するわけではないが、ここまでぼろくそ言われているのをはたから見ると「いたく気の毒な人生だなあ」と思う。

「裏で馬鹿にされているおじさん」が上司であるだけで部下は不幸である。周りにいる人が幸せにならない存在でぶーぶー文句を言われ続ける人生のどこに素晴らしさがあるのだろう。
結局のところ、上司としては人をひきつける力や、人をうならせるような力や、人に慕われる人望が必要なのは言うまでもない。

その不在を部下たちは批判し続けてしまうものだ。
でももしかすると「馬鹿にされているおじさん」もまた、かつておじさんをバカにしたり、批判したりしていたのかもしれない。
と思うと、批判されている「裏で馬鹿にされているおじさん」はもしかしたら部下であるわたしたちの数十年後の未来の姿であるのかもしれない、とも感じるのである。

ニーチェの「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」ではないが、おじさんを批判するわたしもまた、批判されるおじさんへの階段を上っているような、そんな気がしてならない。

腫物扱いをされたくないのであれば、「裏で馬鹿にされているおじさん」をともに馬鹿にするのではなく、裏で何を言われているのかを知り自らを改めることのほうが、よほど価値はある。
言い方は悪いが出来の悪いおじさんを反面教師にするのか自らの未来にするかどうかは、今の生き方そのものに直結する重大な問題なのである。

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