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贅沢とは無駄にあり

今の会社に入った時に研修(2日だけ)をしてくれた部長から
「人は小太りなくらいが一番長生きなんだ」
と言われたことがある。

もっとも、その部長は小太りどころかかなり太っているのだが、言われてみればごはんがなくなったとき一番最初に死ぬであろう人は痩せている人である。
それは肉がなく、すぐにエネルギーが底をついてしまうと考えられるからだ。

でも、今の時代であれば急に飯が食えなくなる、なんてことは幸いにもない。だから、多くの人は腹についた肉を「贅肉」とか「無駄な脂肪」などといっていたりするわけだ。

ちょっと考えてみると、贅沢なことって大体無駄なのではないか。

例えば、新聞の広告はほとんどだれも見ていない。
作っている業者の人たちには申し訳ないが、あれは広告という意味で見れば「だいたい無駄」である。
しかしそれは新聞社の収入になっているのであり、無駄こそが新聞社による贅沢な人材配置なんかにつながっている。

ほかにも気の利いた高級料理なんかもそうだ。
味は確かにおいしいが、空間の広さや皿の大きさなど、極端に合理的な考え方をすれば「無駄」なものにつつまれて、そしてやけに高い値段=無駄なお金をかけて飯を食うわけだ。
あれほど無駄な行為はないわけだが、しかしそれが私たちの幸せや特別な一日につながっているわけだ。
これほど贅沢なことはない。

「ミニマリスト」なんて言葉が人口に膾炙してしばらくになる。
無駄なものを極限までそぎ落としていくと、簡素でシンプルな生活につながり、居心地の良さのようなものがあるのも一つの事実だ。
ビジネスもまた、無駄なものを極限までそぎ落としていくと、いわゆる「筋肉質な組織」が出来上がるなんて言われている。

無駄を削げば確かに合理的だ。でもそこに贅沢はない。
はて、贅沢のない人生というのは、果たして幸せなのであろうか。極端に合理性へと向かい続ける社会に、どこか違和感がある。
時に羽目を外して贅沢をした一瞬があっても、真面目に生きる日々との帳尻は取れそうなものである。

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