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「学歴=泣きぼくろ」説

「泣きぼくろ」というのは、あるとかわいい、とされている。

でも、泣きぼくろがあればみんなが可愛いわけではない。

仮にそうであるならば、整形として泣きぼくろを加える手術がもっと主流になっていいはずだ。現実はそうなっていない。

要は、すごくシビアな話ではあるが、かわいい子に泣きぼくろがあるからやっぱりかわいい、という話なのである。泣きぼくろはあくまで+αみたいなものであって、あくまで「かわいい」のための十分条件に過ぎない。


学歴も、これと同じようなものだ。

つまり、「学歴がある→優秀である」ということは全くなくて、きちんとモノを考えている人間に学歴がついているから、やっぱり優秀である、というべきなのだ。学歴もあくまで+αであって、「肩書き」に過ぎない。


学生のなかにはそれを見誤っている人間が結構いる。学歴が高ければ人間としてスーパー優秀で文句の付け所がない、といった調子だ。

学歴が高いことの意味は「学ぶという行為において、上から与えられたタスク処理能力が相対的に高い」ということだ。社会で使える人間だとか仕事ができる人間だとか、人間として大丈夫かとか、そういう能力まで包摂しているわけではない。

仕事は単調なタスクの繰り返しであることがしばしばである。学歴の高い人間の中には、こういう雑務の遂行が極めて不得手な人間もいる。事務方の仕事がどうにも苦手なひとも少なくない。そもそも集団に馴染まないひともいて、そういう場合は組織の中で仕事をするということに向かない。

もちろん、学歴が泣きぼくろ程度のものであるから「学ぶ必要などない」ということを言いたいのではない。ただ、それが別に社会では絶対的な尺度ではないということだ。要は「学校でちやほやされたからといって、変な勘違いをするな」ということである。

そういえば、大阪大学の辻大介氏は、高学歴者ほど「ぼっち耐性」が高いという話を講義でしていた記憶がある。「コミュ障」なんて言葉もあるが、高学歴者は結構コミュニケーションが苦手で、ひとりでやりたいことをやっているケースも少なくない。こういうところをみても学歴が高いとはいっても万能ではないことは明らかだ。


こんな風に考えると、泣きぼくろと学歴は結構似たものにみえる。まあ、まず取り組むべきは泣きぼくろがあるにふさわしい顔を作ること(整形のススメとかそういうことではない)であり、「学歴」でいえば十分な実力と人間としての魅力を身につけることである。

人間、中身が肝心なのだ、と思う。

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