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名作「めぞん一刻」からSNSの功罪を思う

友人との待ち合わせで到着が遅れそうだったらラインで「遅れそう」などと送るのは極めて日常的な光景の一つである。受け取った側も無用な心配もなく、安心して相手を待つことができる。

「めぞん一刻」という漫画がある。大作家である高橋留美子さんの屈指の名作だ。当時は固定電話しかないので、連絡をすぐとりあえない。
たとえば、夕方までには帰るといっていた主人公がなんだかんだで恋敵と酒を飲むことになったりして帰らず、主人公のために夕ご飯を作っていた管理人さんが心配を募らせながらも最後には駅に迎えに行き「飲んだんですか」と一言。主人公が「…少し」というと雨の降りしきるなか管理人さんが主人公をひっぱたく、というシーンがある。
管理人さん、幾分感情的過ぎやしないかという気もするけれども、これでこそめぞん一刻なのである。
現在であれば「連絡すりゃ済むじゃん」という話ではあるのだが、仮に上述のシーンで「今日は遅れます」といったらその瞬間終わりである。
感情の微妙なもつれやすれ違いを一切表現できない。

SNSは共感のメディアである。それだけにお互いがわかり合うことに重きが置かれたり、批判するにしても批判しているひとたちはお互いに「こいつを批判してしかるべきである」という感覚や認識を共有している。
それだけに言葉の肥溜めともいえるほどしょうもないあれこれも垂れ流されているわけだが、まあそれはそれとしておいておこう。

だから、明らかに感覚がずれている状態というものを是正することができるというのがSNSの強みであり、そして同時に「めぞん一刻」みたいな名作を見たときには弱みになるのである。

お互いがわかり合えないからこそのもどかしさとか、だからこその人間模様を描きづらくなる。「いやでもわかりあえてしまう」というのは、現代人につきまとう呪縛みたいなものなのかもしれない。
もっとも、人の感情や感覚など共感してわかったようで、その実さっぱりわかっていないのだけれども――。

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