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力への意志を持つか、弱き奴隷として生きるか

「村上龍だと、ぶっちぎりでこれがおもしろいっすよ」

村上龍のファンである会社の同僚から言われて紹介されたのが「愛と幻想のファシズム」という作品だった。ざっくりいうと「我々は弱い人間に搾取されている。力のある人間が生き残っていく世界を実現していこう」とする団体が暗躍するという作品だ。

自己を超越して成長しようとする意志である「力への意志」という言葉を残したのは二-チェだったが、まさに人間の根本にある力への意志がいかなるものかを感じるのである。その力への意志は、作品内の随所に現れている。

「現在のすべての問題は、普通の人々が力を与えられすぎていることから発生している」
「僕達は基本的に、強い子孫なのです、いいですか?僕達の祖先に、子供の時死んでしまった人はいないんです」

権力などの力を圧倒的に持つことに、どこか抵抗のある「愚か者」たちが、バッタバッタと主人公になぎ倒されていく様子は(読んでいる分には)実に気持ちが良い。
殊更に権利が主張される今にあって、物騒なタイトルだが読むに値する傑作だろう。


少し話が変わるのだが、私がすごいなと思っている友人が、人生を変えるほどの影響を受けた一人の教授がいる。その教授から先日、話を伺う機会を得たのだが、こんなことを言っていた。

現代の日本人は、人ができないことをやろうという人が少ない。格差社会の現代にあって、上に上がっていこうとする、上にいる層が少なすぎる。
それは日本人がプロレタリアートの安定性を信じているからだ。ブルジョアになる気がないだけだ。日本人はみんな強い人をたたいて、弱い人に寄り添う。そういう国民性が日本人にあるのも問題だし、このままでは日本はどんどんと弱くなる

この問題意識は、「愛と幻想のファシズム」における力への意志につながるところがある。

毎日働いていると、少しずつ現状維持を志向するようになっていく。一生懸命労働すれば口に糊をするだけのお金が手に入り、そして満足いく生活ができる…と思い込んでしまう。

はたしてそうなのか。我々が強者になろうという意思を持たねば、いつの間にか一種の労働力として活用される道具になり果てるのではないか。
ゆえ、自分の身を守ることにつながるのは強さであるという自覚を得なくてはならない。

いまのままなら大丈夫、力がなくても大丈夫、という思い込みは、弱者の妄想に過ぎない。

私たちは「力への意志」を持っているのか。

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