見出し画像

信じきるものがないと不幸なのか

以前、ある友人から一冊の本を紹介された。
吉田満氏が著した「散華の世代から」というものだ。

そのなかに、こんな一節がある。高校生が「(特攻隊は)是非はともかく、信じ切って何かに当って砕けた青春をふと羨ましく感じた」と言ったことに対する返答だ。

「今こそ不幸な時代だ、信じ切る対象がないから、というのですか。それが現代という社会の責任だというのですか。身辺の不満を手がかりに社会を自分たちの手で改めてゆくことこそ、現代の青年に課せられた最も充実した課題なのではありませんか。それが可能であることが現代の特徴なのではありませんか」

「散華の世代から」

この一節について、その友人は「この本に触れた当時の僕は、高校生の『信じるものを以て生き抜けたことが羨ましい』という感覚に、正直共感したところもあった」と明かしてくれた。

なるほどなあ、と思いながら、思い出した本の一節があった。日本の大作家のひとりである、村上春樹の言葉である。

「若い人々はかつての日本人が持っていたような社会に対する信頼感を持ち合わせていないようです。彼らの多くは安定することよりむしろ、自由になることを望んでいる。しかしこの社会はまだ、そのような人々を有効に受け入れようとはしない」

「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」

昔の日本には、信ずるべき大きなものの存在が明らかにあった。
それは「一億総玉砕」と叫ばれた時代の国家かもしれないし、「社員は家族」などといわれた時代の会社かもしれない。
大きなものに身を委ねれば「きっとうまくいく」という、根拠のない信仰がそこにはあったのだろうと思う。
いってしまえば、国家や企業という「宗教」への信仰だ。

いまはなんでも自由な世の中である。
その代わりに、自分で価値観を持ち、その是非を判断しなくてはならず、そしてその結果起こった事象に対する責任も付きまとうことになる。
エーリッヒ・フロムは「自由からの逃走」という本を書いたけれども、逃走したくなるくらい自由に付きまとう責任は重いし、あまりにも孤独なのである。

今の時代、国家や企業といった「みんなが信じてきた大きなもの」への信仰は失われつつある。
それでも「一部の人が信じるまあまあ大きなもの」はこの世に跋扈している。ときに新興宗教のような宗教であったり、特定の過激な思想集団だったりと様々だが、いずれにせよ、そういうものを信じないと猛烈に不安になる弱さを、人間は内包しているのだろうなと思う。

逆に、自分を信じるのはとても難しい。
自分だけで道を切り開いて、きっと大丈夫だと思える人生を築き上げるのは難しい。だから自分を信じ切れないまま誰かを信じたり、時には自分を信じて組織から飛び出したりと、せめぎあいながら揺れ動く日々を繰り返すことでしか、きっと自信など持ちようがないのだろう。
私たちには、「信じ切る対象がない不幸ないま」において、信頼に足る己と大きな何かを作り上げていく使命を課せられているのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?