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先走ることばたち

小さいころ、親はいろいろなしつけをしてくれていたものだ。

「ドアを閉めろ」
「電気を消せ」
「靴をそろえろ」

といった日常的な動作から、

「自分がやられて嫌なことは人にするな」
「弱い人を馬鹿にするな」
「もっと頭を使え」

と、いわゆる「人間性」の部分に至るしつけまで、思い出せないくらいある。

そうした話を受けて、幼年期の私は当然それをきちんと聞くわけである。
理由は、親に叱られるのが怖かったからである。

一方、母親や父親も人間であるから、幼年期の私が注意されているようなことをしでかすこともある。
例えば、風呂場の電気がつけっぱなしというケースだ。

今であれば「ま、人間だしね」と思って自分で電気を消すのだろうが、当時の私はそうはいかない。私は親を注意するのである。すると親は

「ああごめんごめん」

といってそそくさと電気を消す。

「もし同じことを私がしようものなら親は私を強くしかりつけていたはずであるのに」

と、なんだか釈然としない気持ちで親の姿を眺めていたものである。

成長していく日々のなかで、ひとはいつの間にか「社交辞令」というものを覚えていく。
人との会話を円滑に進めるための、いわば潤滑油のようなものだ。しかしこの言葉自体に何か積極的な意味があるわけではない。

いつからであろう。
そういう社交辞令を受け流しつづける日々の中で、
いつの間にか言葉を真正面から受け止めなくなっていったのは。
そしてそんな態度が「おとなの態度」なのだと思い始めたのは。
そして自分の発する言葉にすら、嘘をつくようになっていったのは。

いま身の回りを見渡すと、言葉だけがいやに先走っているように思えてならない。

もちろん社交辞令は否定しないし必要なものだ。社会においてはいちいち本気のやり取りばかりでは回らない。

しかしそればかりでは、言葉を通じた真のコミュニケーションは取れない。
言葉と言葉そのものをただやりとりするだけになってしまう。

コミュニケーションは、各々の人生のやり取りである。その一言には自分の信念が反映されるのであり、自分の哲学が反映されるのであり、自分の日常が反映されるのであり、自分の感性が反映される。

言葉は、それっぽいことを言えばオッケーというものではない。その言葉に対し、自分の生き方がどうなっているのかを絶えず内省し続けねばならない。

立派なことを口走ることがある。

確かにその通りだとひざを打たせたこともある。

ならば「その話をしているお前はどうなっているのだ」と聞くと、
さっきまで雄弁だった口は途端に動かなくなり、沈黙してしまう。

自分が意見を表明することは、非常に恐ろしいことでもある。
言葉を発した瞬間に、その刃先が己を向くことになる。
その言葉が、人を攻撃するものであるほど、その刃先は鋭く光る。

しかし、その刃先を向けられるから対立を避ける、というのは愚の骨頂だ。
かの有名な芸術家である岡本太郎は「調和とはぶつかりあうことだ」といった。

「和」というと平和で仲良くというイメージが強いが、本来はぶつかりあうその摩擦の中にあるのだろう。
川の石のように、削られていったものが丸くなるのと同じだ。ぶつからずに削られなければ、とげとげしたままで存在し続けることになる。そこに和はない。

その言葉を言ったらそれきり死んでくれ、と言われてどう思うか。まだ言い足りないことが誰しもあるはずである。私ももちろんそうだ。

「これさえ言えれば死んでいい」と思える言葉を求めて、人は表現にいそしむ。

ああでもない、こうでもないと悩み続ける日々の中でポトンと一つの言葉が落ちてくるのだと思う。
では、その言葉を生むのは何か。他でもない、今目の前にある日常だ。

言葉とは生き方そのものなのである。

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