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大体、自分でやるのはムズい~ちょうちょ結びができなかった私~
幼稚園のころのわたしはちょうちょ結びができなかった。当時、困った私は、
「せんせい、ちょうちょむすびおしえて!」
と言って、自分の靴ひもを結んでもらうことにした。しかし、私はちょうちょ結びのやり方を学ぼうという気は全くないし、ほとんど人の話を聞いていない時代である。
先生は私の靴の紐をちょうちょ結びしてくれたのだが、私が結んでもらえたことに満足して「だいじょぶだ」などと意味不明なことを言っていると、先生は
「じゃあ今度はやってみようね」
と言って、そのちょうちょ結びをほどいてしまったのである。
大ピンチである。当然私は結べるわけもなく、ついにきまりが悪くなって、ひもがほどけた靴でその場から逃走したのであった。
こんな風に、人にやってくれと命令/お願いするのは、非常に楽で簡単であるのだが、自分がやってみるとなると途端に難しいことがある。
福沢諭吉の「学問のすゝめ」の中には、こんな一節がある。
「人の商売を見て拙なりと思わば、自らその商売に当ってこれを心せんとし、隣家の世帯を見て不取締と思わば、自らこれを自家に試むべし。人の著書を評せんと欲せば、自ら筆を執って書を著わすべし。学者を評せんと欲せば学者たるべし。医者を評せんと欲せば医者たるべし。至大の事より至細の事に至るまで、他人の働きに喙(くちばし)を入れんと欲せば、試みに身をその働きの地位に起きて躬自ら顧みざるべからず」
大雑把に現代語にするなら、
人の商売を見て「へたくそだな」と思ったならお前が商売するときにそれを意識すればいいし、隣の家をみて「締まりがねえな」と思ったならお前の家ではちゃんとやればいい。
人の本に文句を言いたければお前が本を書いて文句を言え。
学者に文句を言いたければお前が学者になれ。
医者に文句があればお前が医者になれ。
でかいことでも小さいことでも、他人のことにああだこうだ口を挟みたいのなら、ためしにお前がそれをやってみて、そのときにお前の身を顧みなければならない。
となる。ダイナミックに訳すと「文句をぶーぶー言うならおめえがやれ、そのときにおめえが人を批判していた時にいっていたことはできているのかを顧みてみろ」ということだ。
ぐうの音も出ない正論である。
世の中に文句があるときこそ、「お前がトップだったら、どうするのか?」と己に問うてみる必要がある。人間、途端にこの問いを投げかけられると、多くのひとが黙りこんでしまう。果断に決断できる人はなかなかいない。決断の瞬間に批判されることを恐れて、不思議と不満だけが募る。
こういうことを言うと、「でもおれはトップじゃない」「政治家じゃないから、そんなことを考えても仕方ない」という声もあるかもしれない。確かに、政治家の世界なんて自分には関係ないし、自分には決める権力もないし、自分には実力もないし、自分にはおつむもないし、自分には金もないし、自分にはコネもないし、自分には地盤もないし、自分には影響力もない——何もかもがないのだから、しがない一般市民の私には何もできないし、政治家をうだうだ批判して、留飲を下げるほかないという声も、あるかもしれない。
でも、私が一時、講義を受けていた先生はこんなことを言っていた。
「やらないうちに答えを出すというのは自分に対して無責任じゃないのか」
世の中は今この瞬間もめまぐるしく動き続けている。あまねく問題にアプローチするのは無理だが、何か憤りを感じていたり、「これはおかしい」と感じていることが、この世界にはあるはずだ。ならば、いわばその「憤怒」を持ち合わせて、自分はその変革のために何ができるのだろうと考えるべきではあるまいか。
そのために人は勉強するのだと私は思う。本を読んで、歴史を学んで、議論をして…そういうなかで「こんなことをやってみたらいいんじゃないか」とアイディアが浮かぶ。
やらないうちから「無理だ」と答えを出して文句を垂れるのではなく、そこにアイディアを浮かべ、そして行動することが「憤怒」を持ってしまった人間の責任なのではないか。なぜなら、言葉はその美しさに酔うばかりではなく、人間を突き動かす動機にもなりえるのだから―。
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