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憧れの人たちは自分と同い年のころ、どんな人生を歩んでいたのか

テレビをボケっと見ていると、ふと思うことがある。

自分の年齢と同じくらい、またはそれより下の年代の子たちが、五輪や甲子園で大活躍しているということだ。

「こんなにすごいことができるなんて大したもんだ」と思いながら、エアコンの効いた部屋に寝っ転がっている私がいる。


尊敬する人、好きな作家やアーティストなんてのが、誰しもいると思う。
そういった人たちは、今の私たちの年代のころ、どんな日々を送っていたのか。


私が中学生のころから好きな小田和正であれば、大体1975年ごろ、27~28歳頃だ。確か、札幌かどこかで十数人を前にライブをしていたころである。ヒットには程遠かった。「眠れぬ夜」という楽曲が多少売れたものの、勢いに乗り始めるのは1980年代を待たねばならない。
杉山清貴であればソロデビューして、オリコン1位を獲得したころだ。


作家の開高健であれば、サントリーでキャッチコピーを書きながら、「裸の王様」を書いて芥川賞を取ったのが30歳手前だった。
三島由紀夫であれば海外をうろうろしてから「潮騒」を書いたころにあたる。

イスラエル建国の父であるベン・グリオンなら、おそらくトルコで政治活動かなんかをして一回牢獄に入れられた時期に当たる。
高杉晋作であれば、今の私とほぼ同じ年で死んだ。


芽が出た人もいれば、芽が出ずに苦しんだ人もいる。捕まった人もいれば、死んだひともいる。


(比べるのも甚だ僭越ではあるのだが)こう自分自身が憧れとする人たちと比べたりすると、いかに自分の人生が矮小なものであるのかに思いが至る。
そして、ごくごく普通の人生が自分の目の前に横たわりつつあることへの、漠然とした危機感は日々大きくなっていくのがわかる。


どこかしら立派な組織に属しているだけで満足するのではだめだ。
何かに所属していることに充足するのは、普通のサラリーマンの人生である。

自分が最後一人になったときに、自分自身は何者であるのかを語りうる何かを作り上げなくてはならない、と私は思う。

「別に人生、飯が食えて楽しければ、普通でいいじゃん」という人は、それでいい。
道を求めることもなく、普通の人生を謳歌すればいい。
それもまたひとつだ。

こんなこと、小さなころであれば、意識もしなかったことだろう。
幼年期は、自分は何者にでもなれると思っていたし、実際そのとおりだからだ。
「普通でいいじゃん」と言っていた人も、何らかの夢を持った瞬間があったはずだ。

しかし年月を経て少しずつ、現実が見えてくる。自分が何者にでもなれる、ということに疑義を挟みたくなるものだ。
そこで「自分はふつうなのだ、何者にでもなれると夢見がちなことばかり口にしていても仕方ないだろう」と諦める方が、人生はすこぶる楽になる。
その代わり、面白くもなんともない。

私にとっては、「人生がつまんねえ」ということがどうにも耐え難いのだ。
いまこの瞬間にも失われていく時間を言い訳にして可能性がないと嘆くよりは、少しくらい面白いことをしたほうがいいとは思わないか。これはひとえに感性の問題である。

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