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1900年ぶりに作られた国へ⑧

ヤド・ヴァシェムを後にする。時刻は18時すぎ。路面電車でいったん宿に向かう、なかなかいいホテルだったが、まだ外は明るい。宿も見つかったことだし、せっかくなので嘆きの壁にいこうと思い立った。
エルサレムというのは非常にややこしい場所で、イスラム教とユダヤ教とキリスト教の聖地がなぜかこの場所に固まっている。当然ながらここを巡る宗教の対立、及びそれに付随した争いが起き続けた。
よくもまあユダヤ人もここに国を作り上げたものだ。
嘆きの壁をはじめとする聖地は、エルサレムの旧市街の中にひょっこりある。
この旧市街というのが複雑怪奇で、人も多いし露天も多いしで、夜にもかかわらず大変なにぎわいだ。
空腹で食事をとったが、フムスという豆のペーストをパンにつけて食べると、すこぶるうまい。

ちなみに、この旧市街の道ではよく生搾りの果物ジュースが売っている。至る所に売っている。買い逃しても10m先にあるくらいの勢いで売っている。
迷路のような道を、看板を頼りに進んでいくと突然入り口が出現する。荷物検査をしてから、ここに入ると嘆きの壁が拝める。一応写真撮影禁止なので、遠方から撮ったものだけを載せておこう。

ものすごい人数である

ちなみに壁に近づく前には手を洗って、キッパという小さな帽子を誰もがかぶらなければならない。
私も慣れないながらやってみたが、キッパが風ですっ飛んで大変だった。いつでもどこでもキッパが乗って落ちることのないユダヤ人の頭はどうなっているのだろう。
壁に触れたユダヤ教徒が体を揺らしながら、聖書の内容をぶつぶつと読み続ける。
護摩修行でもする僧侶さながらの迫力だ。人の声が集まると「ごごごご…」といわんばかりの轟音になるのだということは、この時初めて知った。

圧倒的な迫力にあぜんとしている中、ひとまず壁を触ってみた。固い。ユダヤ教徒でもない私からすればこの壁は単に岩であるという以上の意味を持たない。
しかし宗教とは、そこに神との縁と、その意味を見いだす営みなのである。
それを心から信じるから、人の精神や肉体が変化するのだ。
ユダヤ教自体は行動を重んじる宗教ではあるものの、しかしそこに信心がなければ結局のところ意味はない。コーヴィー氏の『7つの習慣』でも「インサイド・アウト」という考え方が提唱されていたが、ちょうどそんな感じかもしれない。何よりもまずは自らの中にある心のあり方を変えねばならぬのだ。

壁を触るその行為の神聖性を理解しないままにいることは、いってしまえばユダヤ教徒への冒瀆でもある。ここに本来「忖度」という二文字があるはずなのだが、しかしその二文字は政治家たちのおかげで非常に低俗な言葉に成り下がった。実に嘆かわしい。

信心を持つものの思いとは何なのか。
ほとんど無宗教であるにひとしい我々日本人にとって、宗教の重みとは何なのか。それを慮る精神的な態度を私は持たねばならないと思ったそのとき、途端に嘆きの壁に触れなくなった自分がいた。
生涯、あの岩の感覚を忘れることはきっとないのだろう。
嘆きの壁を後にして宿に戻る。残すところ旅行も2日のみになった。(つづく)

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