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転職物語⑧ ㋭面接とかをして内定をもらう⑵

銀行のことについて、少しだけ述べておこう。ここはあくまで私見であるから、銀行は素晴らしいと思っている人だとか銀行で結構いい地位にいる方だとかには首肯しがたいことも多かろうが、ご了承いただきたい。

幾分愚痴っぽくなるが、銀行の仕事は極めて退屈である。

毎度毎度同じことをただ繰り返し続けるこの不毛な営みはどうにかならんのかと日々思っていた。リスク性の商品を売り、手数料を稼ぐ、と。そのために販売にかかるプロセスを内面化させ、逐一試すというこの繰り返し。

このスキルを身につけて一体何になろうかと、私は少しばかり首をひねってしまったのである。何よりこの行為自体に意味も感じない。

つまり私にとっては、意味がないと思われることをただ繰り返し続けるのが銀行の仕事であったわけだ。

数字がふられているから、如何に客の金を回し続けるのかに関心を強く持っているものである。営業で数字をあげる人はめちゃめちゃ普通の人か、ちょっと倫理観がバグっている人のいずれかだという実感がある。

顧客も自分の資金を回したがっていれば話は早いのだが、そういう客はわざわざ手数料を取られる銀行になんていかないし、ネットかなんかで勝手にやっている。

だから「銀行は資産運用についてレゾンデートルが存在しない」とか言うと、今度は「運用にかかるニーズは潜在的なもので…」と反論が本部からはやって来る。だからその潜在ニーズを顕在化させて…なんて話になるわけだが、ニーズなんて都合のいい話、ただ現状は「危機感をあおっている」に過ぎない。

まああらゆるビジネス、パイが限られている今にあっては「ウチの商品がないとヤバくない?」という危機感を煽ることはしばしばであるのだが、銀行も同じようなもので、「お金が足りなくなったらどうしますか」、「年金の不安もございますよね」…と煽るのである。

そんなもん、皆危機感を持っているに決まっている。別にそれは潜在ニーズなどとかっこよく呼ばずとも、ただの共通意識に過ぎないのではあるまいか。例えるなら「死ぬのって怖いですよね」という質問に大概首肯するのと似ていて、「金が無くなったら困りますよね」という質問にも誰しも首肯するわけである。

備えていなければいないでヤバいのは事実だが「死ぬのを怖がってもいつかは死ぬ」というように、「金が足りなくなったらそのときはそのときで身の丈に合った生活をするしかない」という話で、元本毀損のリスクを背負ってまで、将来の備えと言いつつ年寄りに投信を買い付けさせるというのもどうなのだろうかと個人的には思う。まあ、金が余っていてどうしようかな、というような富裕層には良いだろうが―。

かたや金融庁は”Fiduciary Duty”と「顧客意向の最優先」などといろんなきれいごとを言っているわけだが、こうも銀行の数が多くなっている今にあっては、日々「組織のための」数字に追われ続け、真に「純粋な」顧客意向を鑑みているだけでは何とも経営が立ち行かないという現状がある(もちろんこれは、顧客意向を無視しているという事を必ずしも意味していないから注意されたい)。

この本音と建前のちょっとした乖離みたいなところが、どうにもこうにも私には気に食わなかった。加えて人間関係も面倒くさいし、お局みたいなのがいると途端に雰囲気が悪くなってしまう。大概お局は、意地悪なタイプか理性によるコントロールが全く聞いていないタイプかのいずれかであり、いずれにせよ組織を悪くする点では共通している。

そんな感じで、銀行は一般的に言う「安定性」というものを取りながら、一方で様々なものを犠牲にしているような感もあり、私はその点で「はてな」な感もあったのである。

そして銀行の安定性というところについても、正直疑義を差し挟む余地があると私は思っていて、何よりも利ザヤが薄い今の時代に、資産運用の手数料収入へ舵を切っている銀行が少なくはないが、これもどうなのだろう。

目先の手数料に目が行って顧客意向から乖離することなんて往々に有り得ることだし、何よりドイヒーなファンドを持っているお客様はどうにもこうにも救いがない。

売るにも売れないし、運用会社に話を聞けば「しばらく様子を見てほしい」の一言である。お客様サイドからすれば「てめえらが売っておいてしばらく様子を見てこのざまなんだ」とブチ切れるのも頷けることだ(一応、自己責任で買ったという建前なので金融機関は「いやいや、うちら押し売りしてないですから」というexcuseを創り上げるけれども)。

もちろん「様子を見る」ことで値を戻すのが向こう何年後のことが分かるわけはないのだが、現状基準価額やら分配金やら何やら下がり続けているし、どう考えても利回りが取れねぇだろ、みたいなファンドへの投資について、何を様子見すればいいのかよく分からないのである。

とそんなことを思いながら、適当に話を合わせている自分にも無性に腹が立っていたりしたのだ。加えて地方銀行の合併吸収や、AIやフィンテックの隆盛が金融業界に与える影響は決して小さくない。

そこで考えると、そもそも銀行の仕事でどのくらい人間が必要になるのか、というところは問い直さねばならない。分かりやすいところだと事務なんてどうだろう。銀行の事務の仕事など今や結構ATMとコンビニに取って代わってはいないか。もちろんそうではない仕事もある(ex.相続とか)わけだが、機械化できそうでもある。ゼロになるとまでは私は言うつもりはないが、内部にいた人間としては、正直あんなにいらないだろうと思う。

まあ綺麗な人が多いから目に毒という事はないのだが、労働力という冷たい見方をすれば供給過多という感も否めない。営業も、リスクの低い円定期の作成くらいならATM的な機械でやってほしいものである。リスク性の商品となると実際に分かるまで説明をしてあげる方がいいだろうから、ここに人間が介在する価値が”まだ”ありそうである。

会社を離れれば飲み会であるが、それはそれでしょうもない話しかしないし、上司の愚痴とお局に対する悪口を聞くために何故わざわざ4000円近く払う必要があろうかと心底不満を抱えていたわけである。

まあ、飲み会は自分が楽しむものではなく他者を楽しませるものであるから、仕方ないと言えば仕方ない。ただそういう話を聞かされ続けている部下というのは、「そういう目で」上司を見るようになる、という事はあらゆる企業の上司に認識していただきたいことではある。

いやはや、書いてみると愚痴そのものであった。まあとにかく私はそんな感じの不満―というより、寧ろ「こんなところにいたらマズイ」という危機感―から転職活動を始めたのもあり、一方で自分が向かいたい方向というのも別にあったりして、㋑のところでも関連して述べたように、前向きな意志と後ろ向きの危機感という二重のブースターが働いていたのである。こういう思いを上手くデコレーションして実際の面接で話をしていた。

現状抱いている何らかの不満・不足が、キャリアチェンジという「商品」の「購入」により解決され、そして自分なりに満足のいく状態を獲得する…という流れで考えてみると、その購入に至るプロセスを如何に「デコる」のかが鍵であり、そのデコったものに自分の前向きな意志を乗っけてみると、志望動機やら転職の動機やらは勝手に出来上がってくるものだ。

そして、この流れはまさしくソリューションセールスのフレームワークと同じようなものであると気づいたりして、ビジネスの上で行われることは何であれビジネスの思考体系で片付けられてしまうのだと、少しばかりゾッとしたりするのである。(つづく)

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