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15年ぶりに全国大会のメンバーで水泳のリレーを組んだ話【上】

東京辰巳国際水泳場——それは水泳選手にとっての聖地ともいえる場所である。

ジュニアのころであれば「辰巳で試合に出る」ことは一つのあこがれである。
ちょっとした大会のみならず、全国大会や国際大会も開かれるプールであり、それだけに「あの北島康介もここで泳いだんだぞ」などとコーチなんかに言われながら、憧れを日々募らせて水泳に打ち込むわけである。
私も何度か辰巳の試合に出たけれども、なんとその辰巳が、なんと2023年3月末で閉館することになったのである。
その最後の辰巳の試合が迫っていたのだ。


私は中学2年生のころまで水泳をしていた。
当時は全国大会(JO)に出ることを目標にしてやっていたのだが、中学2年の春に図らずしてメドレーリレーとフリーリレーでJOに出ることになった。

水泳というのは、標準記録を切ればだれでも大会に出られる。JOでも標準記録があるのだが、まあこれが速くてなかなか切れない。
当時は確かフリーリレーで3分50秒くらい、メドレーリレーで4分15秒くらいが標準記録だった(今はもっと速いタイムである)。

で、当時リレーのメンバーでJOに出場する権利を得たのが友達である5人だった。
それぞれ、「異様に泳ぐのが速かったアニオタ(Sくん)」「私が生まれる前からの幼馴染(Nくん)」、「一緒にローソンに寄ったりグランツーリスモをやったりしていた友人(Tくん)」、「JOの常連で日本選手権などにも出ていた友人(Uくん)」、そして私である。ぶっちゃけUくんがいたから全国大会に出られたところもあったのだが、これもまた時の運である。

中学二年生当時は背泳ぎがSくん、平泳ぎが私、バタフライがUくん、クロールがTくんというのがベストメンバーで、NくんはTくんと交換して出場が可能、という状況だった。
ちなみにJO当日にNくんは発熱したにも関わらず会場に姿を現し、皆から「流石に帰れ」と煙たがられていた。自分の意志を強く持つ、実に彼らしいエピソードである。

全国大会のタイムを切った時の感動、そしてあの瞬間に目標を喪失し、空虚になったあの不思議な感覚を味わったことは、今思えばはなはだ稀有な、かけがえのない体験だった。

私にとってはJOの終わりとは水泳の終わりだった。
それだけに選手として真剣に水に入ることも今後はなく、JOの会場であった辰巳に選手として足を運ぶことはもうないのだろうと思っていたのである。
23年3月末で閉館するというのだから、その思いはなおさら強かった。

そんなある日、Uくんが
「みんなでフリーリレー組んだら?」
と提案してきた。「お?」と思っていたら、矢継ぎ早にTくんが
「リレーいいじゃん!」
と言い出した。

「まあ確かに、久しぶりに泳ぐくらいなら…」と思い、ゆっくりならいいよと答えると、みんなでリレーを組むことになった。
そして話の流れでよくわからないが、メドレーリレーを組むことになっていた。

メンバーは、Uくん、Nくん、Tくん、そして私。

15年ぶりにJOメンバーでメドレーリレーを組むことになった。(つづく)

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