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賢者タイムと死ぬことと

三島由紀夫のエッセイで、『新恋愛講座』なるものがある。この中に、「終わり」について書いている「おわりの美学」なる章がある。
OLのおわり、恋愛のおわり、などまあそれは様々なおわりなわけだが、そのうちに「童貞のおわり」というところがある。

初めの方に、男にとって童貞であることは恥ずべきことであり、それを誇る年頃の男は嘘をついているか相当の変わり者のどちらかだ、ということが書いてある。男などだれしも、生まれたときはみな童貞じゃないかと思ったりしたのだが、「童貞のおわり」のなかで印象的だったのは以下の部分である。

「生命の頂点とは、実は死と隣り合わせの状態にかえること」
「本当は、『童貞のおわり』のときに、生命の頂点において、生物的役割をはたし、同時にいつ死んでもよい状態になってしまっている」

この一文、男性の感覚としては極めて納得いくものだと思う。

多くの男性には、コトを終えると「賢者タイム」という時間が唐突に訪れる。
婚いだあとに「急に男がそっけなくなってシャワーを浴びに行ってしまった」「すぐ寝てしまった」と文句をいう女性が時折いるが、あのとき男性たちには「賢者タイム」が到来している。

「何をしてんだ、オレは…」
という、後悔とも懺悔ともつかないあの心境は、なんとも形容しがたいものがある。

三島の文章を読むと賢者タイムとは、死ぬ瞬間なのではあるまいかという気がしてくる。
そう、快楽を伴う痙攣を経て、男性は死んでしまうのである。

まあ、生物としては、男はコトを終えたら特にやることはなくなってしまう。二人の子供をもつ現役のお父さんに聞いたところ「確かに奥さんに比べるとあまりにも無力である」という旨の発言をしていた。
私も子供はいないが、自分が子供の頃を思うといたく首肯するところである。

よく考えると賢者タイムという名前が秀逸である。
コトを終えて生物としての使命を終え、ある意味の「死」を迎えるときに男が急に「賢者」すなわち賢くなるというのは一種の悟りである。世の真理に気づいた時に人は死ぬのである。

そういえば、虫とかでよく、交尾をするやいなやすぐに死んだり、メスに食われたりするケースがある。
虫とかに賢者タイムがあるかどうかは知る由もないが、あれが「用済み」のオスに対する、種の発展の知恵なのだろうなと思う。
虫の世界は心底残酷なものであるが、幸い人間界ではメスがオスを食うという文化はない。

賢者タイムが到来してもなお人生が継続する人間の男性たちには、悟りを得た賢者として語りうることがあるのではないか。
それが「童貞のおわり」の何たるかであり、すなわち童貞にとっての神の啓示であるのだ。

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