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1900年ぶりに作られた国へ⑦

こういうときはノンバーバルに頼る以外に選択肢はない。
ベン・グリオン!ベン・グリオン!とうなされたように言いながら謎のアピールをすると、「ああ、知ってる!」みたいなリアクション。

知っているか知らないのかは聞いていないのである。何処に家があるのかを聞きたい。しかし"WHERE"の響きを彼はどうしても理解しないのである。

仕方ないので彼がベン・グリオンのことを知っているという無意味な情報を手に、「オッケー、イエーイ!」みたいな感じで別れた。

こういうことは海外の田舎ではしばしば起こることである。日本の田舎でも方言がきつすぎて何を言っているのかわからないです、ということがあるように。

こういうときには年配の人ではなく、若い人を見つけて話しかけるのが吉だと考えた。早速、前からたばこを吹かすイカしたお姉ちゃんが登場。すかさずどこかを聞くと、
「どこかはわからないが、あちらにまっすぐ行くとあると聞いたことがある、わからないが」
という回答が。ここまで自信がないのも珍しいなと思ったが、信じて進むほかない。なんせ周りに若い人がいないから仕方ない。進んでみてダメなら、また戻ってくればいいだけのはなしだ。

お姉ちゃんがいった通り、ただひたすらに直進し続ける。
すると、遠くの方にうっそうと茂る森林が見えた。そして、小さい家と、博物館らしき建物が。
「あれだ―」
思わず口から言葉が出た。さすがお姉ちゃんである。確かにそこはベン・グリオンの生家だった。
ただ、正規の入り口ではなく裏口から入ってしまったようで、そこからは誰も出入りしていなかったが大して気にすることはあるまい。

一国の首相の家とは思えないほど庶民的である

ここにいたのか―と思いを巡らせるだけで胸が高鳴る。我々は歴史が手に届く場所にあることの偉大さに感謝せねばならない。

自国の歴史を忘れた民族は滅びる、というのはアーノルド・J・トインビーだったか、歴史の重要性をイスラエルの人々も認識しているのだろう。
ベン・グリオンも遺言のなかで、「自分が死んだ後には家には一切手を触れずそのままにしておけ」と書いている。それもまた、手つかずの歴史を残し続けることの価値を、誰よりもわかっていたからなのだろうと思う。
ベン・グリオンの生家の近くには教育映画を垂れ流す場所や、クイズ館みたいなものもあって面白い。単純によるだけでも興味深いモノだと思うので、少し遠いが是非行ってほしい。

ここから、聖地エルサレムへと向かう。このたびの、最後の目的地だ。
エルサレムはイスラエルのどの土地よりも混雑している。人も多く、クルマも多い。
エルサレムに近づくにつれてバスが渋滞にはまり、なかなか進まない。クラクションの音が町中に鳴り響き、運転手のいらだちが広がっているのがよくわかった。
アクセルを目いっぱいふかして、止まって。もう一度ふかして、止まって…こんなことを繰り返して30分くらい経った頃、ようやくエルサレム新市街の中心地に着いた。

エルサレムはいろんな博物館があって面白い。路面電車も通っているから、市内の移動も非常に便利だ。東京の都心にも走らせればいいのにと個人的には思っていたりするのだが、なかなかそうはいかないのだろうか。

まずは路面電車に乗って、「ヤド・ヴァシェム」という博物館へ向かった。
ここは、ホロコーストをはじめとしたユダヤ人の大虐殺についての展示がある場所だ。
この場所を象徴する言葉が、

”Remember the past, shaping the future.”

というものだ。

「過去を忘るることなく、未来を作るのだ」――イスラエルの国が歩んできた歴史そのものを象徴する言葉である。我々日本人は過去を忘れ、未来を作る希望を失いつつあるのではあるまいか。

ヤド・ヴァシェムのなかには虐殺に苦しみ続けたユダヤ人を写す、たくさんの写真がある。以前、ポーランドでアウシュヴィッツに行ったときにも思ったが、人というのは人を殺すためにどこまでも残酷になれるのだろうと感じた。

しかし、違ったのはこれがユダヤ人の国であるイスラエルの歴史のなかに付置されているということだ。
イスラエルの外に行けば、いくらでもユダヤ人の虐殺を描き上げた博物館や資料展示はある。しかし、それらはいずれも「国を失い、差別に苦しみ続けたかわいそうなユダヤ人」の歴史だ。「国を失い、差別に苦しみ続けてもなお必死に歴史を紡ぎ上げたなか、最後に形になったユダヤ人国家イスラエル」の歴史とは違うものなのである。
ヤド・ヴァシェムの文脈はむしろ後者だ。最後には国を作り上げるといういわば希望を形にするそのプロセスのなかに、この差別は付置されるのである。
そこには光が見える。それは「光あれ」と世界にもたらした、神様が用意したもののような幻想的な光だ。
太陽の光というのは、私たちがその光源に触れることは許されない。イカロスのように、我々はどう頑張っても溶けてしまうからだ。光は、その光のありかを知るために近づくと身を亡ぼすのである。

だから私たちは、本当の太陽の光の色を知らない。
希望の光だって、その先に何があるのかは誰もわからない。
でも、近づきたいと願うのが人であり、そこを率いるのがリーダーなのである。(つづく)

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