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退屈を享受できないわたしたち

スマホが人口に膾炙してしばらくになるが、最近「何もしていないひと」がすっかり少なくなったなと思う。

私はスマホの楽しいアプリやゲームを一切やらないので電車でやることがなければぼーっとしているか本を読んでいるかなのだが、近くをちらちらみるとみなスマホに没入して動画を見たりゲームをしたりしている。
小さなころ、電車に乗っていた時を思い返してみる。当然本を読んだり新聞を読んだりしているひともいたけれど、中にはただただぼーっとしているひととか、目を閉じている人とかもいた記憶がある。画一的に、人がコンテンツを消費して「暇つぶし」をしていることがそこまで目につくことはなかった。

私自身、家でゲームをしたり動画を見たりするときには、「何かをしよう」という意志よりも「なんかねえかな」という暇つぶしの感覚のほうが強い。
もちろん、ゲームや楽しいアプリに身を投じることでリフレッシュできているということもあるのだろうが、意志がなくても行動を強いられ、そして何もせず漫然とそこに存在し続けることができない、という不思議な状態がそこら中に広がっている。

そして、個人的には「何かをしていないと気が済まない」ような焦りにも似た感覚があるのではないか、と思う。
確かに私もぼーっとしているときはあれ、職業柄「つかめていない情報はないか、一つでも知識を得なくては」などと、何か駆り立てられるように本に目をやっているときがままある。

作家の五木寛之さんは以前テレビ番組かなんかで「退屈な時間は弛緩しきった時間ではなく、むしろ何か獲物を狙ってじっと待機しているような時間、『緊張感のある退屈』ってことがすごく大事だ」という話をしていた。

私たちは、いつの間にか退屈な時間を享受できなくなっているのではないか。
何もしていない時間を過ごすことに耐えられなくなっていて、そして何かをすることを常に動機づけられているのではないか。
そもそもわたしたちは退屈な時間を享受できていないのだから、そこに緊張感などあろうはずがない。
そして多分その感覚は、次第につかめなくなっていくのだと思う。

意味のない時間や退屈でたまらない時間をただ漫然と生きることでなにか有意義な気づきや情報があるのかどうかは全く保障されないわけで、ある種ギャンブラーの賭けのようなものではある。
しかしそれでも、意図的に退屈さを享受してみる人生の「のり」みたいなものが、この多忙極まる現代社会には明らかに欠落しつつあるような、そんな気がしている。

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