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誕生日におもう

おかげさまで29歳になった。たくさんの人からお祝いの言葉をいただき、感謝感謝である。

誕生日は、いろいろな人に祝われるものである。もちろん「あー」とか「うー」とかいっていたころは親か親戚くらいしか祝ってくれないが、幼稚園の頃には各月の誕生日の人が会堂で祝われていた。

中学生にもなれば、仲がいい友達なんかが祝ってくれたりした。
中学の時には一緒に水泳をやっていた友人たちから大量の駄菓子をもらったことが記憶に新しい。
かならず10~100円の金券がついたチョコレート「ゴールドチョコレート」を50個程度もらった。単価は50円なので総額2500円と、当時では大人買いの領域である。

しかし、社会人となるとすっかり誕生日に意識も向かず、いつの間にか年を重ねている、ということも少なくない。
ふと、29年という人生を振り返ってみると、いよいよ30歳という一つの峠が見えてきたんだなあ、ということに気づく。長いようであまりにも短かったというのが実感だ。


そして悲しい話だが、そんな日々の中で自分より早くその生涯を終えた人がいることもまた事実である。
それはどこか遠くにいる、名前も知らない誰かではない。わたしにとっては、中学の時に他愛のない話をしていた「同期のあいつ」なのだ。

生きる時間が長くなればなるほど、鮮やかに顔が浮かぶ「同期」は多くなっていく。
でも、そのうちの何人かは、図らずして人生という道を歩くことをやめた。
そんな「同期」から自分に祝いの言葉が飛んでくることはないし、逆にそんな「同期」へと祝いの言葉を私から送ることも、できない。


誕生日のお祝いはいうなれば「●●歳になるまで生きられてよかった」という祝福でもある。
とかく死を忌避するあまり、永遠を希求するのが人間の愚かなところだが、しかしそうであれば死ぬこともないのだから生きる意味だってさほどないだろう。誕生日のお祝いのありがたみだってわかりはしまい。


こんな風に書くと、なんだか切ないように思うかもしれないが、人生の終わりは貴賤を問わずあらゆる生き物に訪れる宿命である。それを受け入れる以外の選択は用意されていない。

「生きる」という黒澤明監督の名作がある。
人は不思議なもので、終わりの時が近づくと人生を全力で生きようと思うものだ。それまでは仕事を惰性でこなし続ける日々が積もり積もっていってしまう。
本来、祝福のあたたかさとは必死に食らいつき続ける日々の先にこそ生まれるものではないのか。はて己はどうだったか。反省ばかりが並ぶ。

そうであっても、中途半端な私の身の回りに数多くの「同期」がまだおり、そしてあたたかな祝福の言葉がそこに並んでいる。
この事実が一人の人間にとってどんなにか幸福であるかを悟らねばならない・・・と気づいたのは、最後の20代の始まりの日である。

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