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「突飛な意見を持つことを恐れるな。今日認められている意見は皆、かつては突飛だったのだ」

クルマ離れ、結婚離れ、読書離れ、旅行離れ――現代の若者はたくさんのモノから離れはじめているという話を聞いて久しい。


あらゆるものから離れた先にあるものは自由だ。
恋人や婚約者がいなければ自分勝手に動いて何も文句を言われることはない。
クルマがなければ管理する必要もない。無駄な税金を払うこともない。
旅行から離れれば、煩わしいトラブルからも自由になる。
本から離れたら他者の思想から自由になれる(わたしは嫌だが)。

すっかり人口に膾炙した「コミュ障」なんて言葉だって、コミュニケーション能力の低下という「他者との交流離れ」であり、違った意味での「人間離れ」といってもいいかもしれない。
そこにはもう、他者の影はない。


あらゆるものから離れ、自由を求めた先にあるものは孤独である。
自由なのだから、一切他者が自分の前に立ちはだかることもなくなる。
他者から、何を言われるわけでもない。邪魔もないし、気分もよいだろう。
そしてこれは言うまでもないが、あらゆる可能性に満ちた未来に向けた選択は、ただ自分の責任で取る必要がある。誰のせいにもできない。


余談だが、自由を求めながら責任を負いたくないというのは実に愚かなことだ。
自由に行動した結果、生じる出来事は自分の責任で起きたことであるはずだ。

アホみたいな例でいえば、自由気ままに飯を食って勘定が高くなっても、それは食ったお前が悪いという話で、お金を払うという責任はしっかり果たさないといけない。
ちゃんとした例でいえば、例えば進路を自由に選んだ時、その先に待っていた結果――例えば、それは楽しい学校生活かもしれないし、絶望的な社会人生活かもしれない――に対しては、選んだ自分に責任がある。誰のせいでもない。
こういう責任を果たさなくば、それは身勝手な個人主義とでもいえよう。


つまり、自由に選択することには結果に対する責任が伴うということだ。
だから選択する自由を謳歌したいのなら、そこに自分の強い意志や思想が必要だ。

その選択の結果、一人になったなら、その孤独に耐えうる精神を持つべきだ。
日本人の多くは、ひとりになった時には「正解がどこにあるか」を探したくなる。
周りを見て、横に並んでいる人の姿勢をまねるのだ。
自分自身の思っていることが正解であるとの確信を抱ける人は数少ない。

ギュスターヴ・ル・ボンは「群集心理」のなかで、

「群集は、本能的に変化と進歩とに反対する」

と書いている。
ひとびとのそういう心性は明らかだ。
己が仮に群集の一要素であるのならば、突飛な意見や革新的な発想を、集団の中に跡形もなく埋め込んでしまうのが普通だ。


しかしバートランド・ラッセルは言った。

「突飛な意見を持つことを恐れるな。今日認められている意見は皆、かつては突飛だったのだ(Do not fear to be eccentric in opinion, for every opinion now accepted was once eccentric.)」

と。
孤独はその人の強さを問う。
一人になることをおそれて責任を負わず、自由を行使しないなら、そこに未来はない。

先人たちが孤独であり続けた先にあった発展の歴史の最先端に、いま私たちは生きている。
では、私たちが未来を作らなくてもよい理由はどこにある?
逆に言えば、意志を持った我々が孤独を厭う理由はどこにある?

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