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20年ぶりくらいに「かわいそうなぞう」を読んだ

知り合いに本の読み聞かせをしている人がいる。
絵本なんかを読み聞かせるらしく「何かおすすめはあるか」と聞いたら「『かわいそうなぞう』とかいいですよ」と言われた。

「かわいそうなぞう」は非常に有名な作品である。簡単なあらすじ(というかネタバレ)だが、以下の通りだ。
第二次世界大戦期、空襲などで上野動物園の動物たちが逃亡して人に危害を加えぬよう殺処分され、最後に三頭の象が残る。象を殺すために毒入りの餌を与えたりするもなかなか鼻を伸ばさず、安楽死のための薬の入った注射針も分厚い皮膚に歯が立たない。泣く泣く飼育員は餌や水を与えるのをやめて餓死を待つことになる。象たちは芸をしたりして餌をもらおうとするも、日に日に衰弱していく。飼育員は涙を流しながら象の衰弱を見つめ続け、そして象は死ぬ。動物がいなくなり閑散とした動物園の飼育員が空を見るとそこには敵の飛行機が飛んでいた。
という話だ。

この本を私は幼年期に行っていた歯医者で毎回読んでいた。というのも歯医者の待合室にあった本のほとんどがファッション雑誌や新聞で、子供が読めそうなものというと、唯一「かわいそうなぞう」しかなかったのだ。
歯医者に行くたびこのストーリーに触れるので毎回心底悲しい気持ちで歯の治療を受けていたものである。


いま、改めて読み返しても、確かに象は不憫だしたしかにかわいそうだなと思う。

ただ同時に、私たちにはなんの躊躇もなく命を奪える動物と、そうではない動物とがいることを自覚するのである。

歯医者でこの本を読んでいたあの頃だって、アリや蚊は普通に殺していたわけだ。そこには良心の呵責などないし、遊びのようにして動物の命を奪っていた。

その延長線上にたとえばゴキブリがいて、魚がいて、鳥がいて、豚がいて、牛がいて、そして象がいたとしても理屈のうえでは別段不思議ではない。
でも、ゴキブリを新聞でつぶしたり魚を締めたり鳴き叫ぶ豚を屠殺したりする人間は、突然象を殺すとなると「罪もないのにかわいそうだ」と思うのだ。そりゃあ象だろうが牛だろうが動物に罪はないだろう。

この本を読んで「かわいそうだ」と思うのは人間として極めて当たり前の感性である。しかし、その瞬間に私たちのほとんどは「この世界の命には哀れみの対象となるものとそうでないものがある」ことを認識せざるを得ない。

この世界には厳然たる命の優劣がある。命は平等、などというきれいごとだけではとても済まない。
それに目をつむって、哀れみの対象になる命だけに「かわいそうだ」と絶叫してしまうのは、極めて残酷なのかもしれない。

年を重ねると不思議と「かわいそうだけど…」とあれやこれやと考えてしまって純粋に作品のメッセージに触れるのが難しくなる。
同じ本でもこうも感じ方が異なるというのは、絵本というのは実に奥深い。

これは大人になって絵本を眺める目が濁ってしまったのか、はたまた絵本とは子供が理解できるような単純なものではないということなのか。いずれにせよ純粋に「かわいそうだ」と思える感性はもう私にはなくなってしまった。
こうして、美しい文学が手元からすべりおちたことを知るのである。

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