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平成は遠くなりにけり
以前ルミネで「平成レトロニスタ」というキャンペーンをやっていた。
ビビットな色合いにブリブリの化粧をした女の子が描かれていて、いわゆる「ギャル」の隆盛を象徴するようなポスターになっている。
そして同時に、平成は「レトロ」なものとしてノスタルジアを喚起する対象になっているということに、平成生まれの私は驚いたものである。
今やインターネットなど当たり前に存在していて、一家に一台パソコンがあるなんていうのも当たり前になっている。
私の家にパソコンが家に来たのは小学校4,5年生くらいの時だ。生まれたころにはパソコンなどないから、コミュニティといえば近くの公園か学校かおけいこで習っていたプールの3つしかない。そこからインターネットという謎の空間が生まれたのだから、当時の私にとっては非常に大きな変化だった。
当時はニコニコ動画の「FLASH黄金時代」と呼ばれていたころで、貪るようにネット上のコンテンツを消費していた。
まだSNSもまともに発達していないころだったから「JETCHAT」などという会話ツール(いまでいう、LINEとか+メッセージみたいなもの)で友人とあれこれとやりとりをしていたのも懐かしい。女性陣の間では「前略プロフィール」なんてのも流行していた記憶がある。
携帯電話(当然ガラケー)のやり取りは基本的にメールか電話で、使いすぎるとパケット代が高騰しすぎてしまうという事故が起きることもあった。
通信制限などという器用な真似はできず、ただただ課金されていくという地獄のシステムだった。当時ゲームに付随するガチャなんてあったら日本人の多くは自己破産していただろう。
と、こんなふうに振り返ってみると、生まれたときからだいぶ世の中が様変わりして、平成は確かに遠くなってしまったのだなあ、と考えさせられる。
中村草田男は、こんな句を残している。
「降る雪や 明治は遠く なりにけり」
ざっくりいうと「明治は遠くなってしまったなあ」という思いを吐露した一句である。
氏と並列に私を置くわけではないが、時が過ぎるなかでいつの間にか、自分が生きてきた時代はいつの間にか過去のものとなり、そして懐かしむ対象になっていくのは、わりあい普遍的な現象なのだろう。
変わっていく日々の中ではあまり意識しないことが多いし、そもそも気づいていないものだ。
時代が変わったことは、振り返って気づくものだ。
そして「昔はよかった」と思いをめぐらせ、一方で「今の子は…」と口をついて文句を言うようになる。
若い私たちは私たちで「おっさんたちはわかってねーな」とおじさんたちを批判して、日々留飲を下げながら生きていく。
そうしてそのうち、気づけばおじさんになっていって、「昔はよかった」と懐古趣味に目覚める。
そんな私たちおじさんをみて、子供・孫の世代は「わかってねーな」と私たちを批判して…と、無限にこんなことを続けながら、ひとはのらりくらりと歴史を紡いでいくのだろうと思う。
平成生まれの己の人生を振り返り、時代の変化を知った時に「平成はよかった、令和のいまは…」と一瞬でも思いが至ったのなら、世にはびこるおじさんたちと何も変わらない。
過去を思い出すことが現代の批判につながるのは、望ましくない。
むしろ、「昔はこうだったけど、今はなんでこうなったんだろう」と考えたり、「これからはどうなるのかな」と考えたりして、時代が歩んできた変化-すなわち、歴史である-を踏まえ、己が一体いま何をせねばならないのかを謙虚に考えることのほうがよほど有意義ではないか。
時代とともに私たちも変化し、そして進化していったほうが、留飲を下げるべくぶーぶー文句を言うより、いくばくか楽しい人生になるはずだ。
私たちは未来に向けて生きているのである。
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