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「みんなちがってみんないい」なら、「みんなおなじのほうがいい」という意見は、どうなる?

私は卒論を書かねば卒業ができない大学にいた。「20000文字書けばオッケー」という緩めのものではあったが、担当の先生が非常にキチッとした方であり、何につけてもツッコミが鋭かった。

今思えば、歴史学の専門であるのに、私が一方的に書いた教育社会学チックな論文にもああだこうだと的確に意見するあの圧倒的な教養は恐れ入るところだ。

さて、私の卒論のテーマというのは非常に簡単に言うとヨーロッパの高等教育について精神論を並び立てた、およそ論文とは言えない代物であった。

ほとんど論理的に書かれているところはなく、自分の思いこみがまず先にあって、そこに後付けのように論理というかそれらしい引用を組み合わせたという決めつけの一作である。

その際、自分の都合の良い記述を切り張りするような引用であれば、正直どんな主張でもできてしまうのではあるまいか、と思ったのもまた事実である。
引用していると何か箔がついているように感じることもあるが、必ずしもそうではないということに気づいたのもこの時だ。

それらしい人間の主張をそれらしく引用するということの恐ろしさであろうか、書いてあることがどんな権威に支えられているとしても、鵜呑みにするのは恐ろしいことである。

さて、私の卒論の最たる主張は、「多様性の尊重」であった。簡便に申し上げれば、

①EUによる高等教育の統一的なプログラム(ボローニャ・プロセスという)によって高等教育の構造的な画一化が推し進められることは、EUにおける新興国において必ずしも良いことばかりを生み出すわけではない

②むしろその高等教育の構造的同一性から、ヒエラルキーが形成される

③欧州の旧社会主義圏(=欧州新興国)がEU域内の高等教育ヒエラルキーの下部に位置せざるを得なくなるリスクがある

④なら、みんなちがってみんないい(by金子みすゞ)方が発展途上の欧州にとっては良い

という話を展開した。ここに既に矛盾が存在しているのがわかるだろうか。

私は高等教育に多様性が在るべきである、という話をしていながら、多様性が在るべきではなく寧ろ統一性を生むべきであるという意見を捨象している。

つまり、「みんなちがってみんないい」ということを主張していながら、一方で「みんなちがったらダメだろ」という意見を捨象しているのだ。

もしこれについて先述の教授に問われたら、最後は教授を暴力でねじ伏せることを考えていたのだが、何も追求されなかったので私は無事、卒業証書を授与された。

実はこれ、社会学で言う「相対主義のジレンマ」というものである。相対主義は矛盾を包括せざるを得ないということなのだが、そのジレンマ、矛盾とはつまり、相対主義という考えは必然的に相対主義ではない考えを拒絶するから、結果的に相対主義にはなっていないということである。

対立する考え方が、相対主義の向こう側にも存在する。その時点で相対主義を相対主義として主張することはできない。その行為そのものが、矛盾を包括するのだ。

では、相対主義であるからそれに対抗する考え方すらも受け入れよう!というのであれば、そもそも相対主義という立場を取ることは出来なくなってしまう。

「じゃあお前は何を以て相対主義的な態度を取っているんだ」となるのだ。


相対主義は便利な考え方である。それは、平和に見えて誰にも批判されないからである。

「みんなちがってみんないい」という一見穏やかとも言えるその主張は美しく崇高でありながら、その実何の主張もしていないし、何の核も持たない。

今になってみると、自分の意見について「決定する」ということをただ引き伸ばしていただけなのではあるまいか。

社会人になってみて、これといって区切りらしい区切りが存在しなくなった。

異動こそあれ、三年ごとに卒業があるわけでもない。子どもの頃はそれが教育制度の中で「受験」というかたちで「与えられていた」にすぎない。

異動は会社都合の話だ。大人は区切りを自分で作らねばならない。そこには必ず「決定」のプロセスが介在する。自分で、自分の道を切り拓くために、自分で決め、突き進む過程がある。

それは転職かもしれないし企業かもしれないし、夢を追ってフリーターになることかもしれないし、より保守的な人であれば社内における昇進レースに首を突っ込むことかもしれない。「決めてそこに邁進する」ということはいずれも共通している。

それを支える大義や恩義、楽しさ、何でもいい―とにかく何らかの覚悟を持たねばならぬ。そしてその支えを以て、自分で決めたことに突き進んでいかねばならない。

そういう気概がなくてはならないのだ。「そういう人生でもいいよね」という相対主義におんぶにだっこでは、永遠に自分で道を切り開くことは出来ない。

…と、そんな風に考えてみると、卒論と言うのは結構学びが深いものだと思ってしまう。私の卒論の本質は、もしかしたら「『人生』というものがたりの目次」とも言えるのかもしれない―。

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