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人には、人生を賭けるギャンブラーの魂が必要だ

小さいころ、父親はよくわたしを競輪場に連れて行ってくれた。父は自転車によく乗っていて、競輪も含めた「チャリンコ」が好きだったのである。
当時競輪なんてわからないから、私はただジュースを飲みながら、父についていく。それだけだった。

そんな道中、トイレに行きたくなる時がある。
父親にトイレに行きたいと伝えると、大体連れていかれたのはパチンコ屋だった。
それもそのはず、パチンコ屋は結構トイレがきれいなのである。客が来れば来るほどもうかる仕組みなのだから、そういった設備投資に力を注げるのはパチンコ屋の強みでもある。
父親は競輪こそすれ、台の前にいるのをみたことはなかったので、父親なりにきれいなトイレを使ってほしいという気遣いもあったのかもしれない。

大人になって、ぼーっとパチンコ屋さんに入ってみる。
自動扉が開いた瞬間に広がるタバコ臭さ。スロットで適当に金を入れて目を押す。「たかが運ゲー」と冷めた態度で適当に押し続けると、時々目がそろってデケデケと音楽が鳴り、とめどなくコインが出てくる。

依存症でもないわたしはでいい頃合を見計らい、遊技を終える。

「なんか、儲かったなァ」

わずかなあぶく銭を手にふらふらと家に帰る。大体、気づかぬうちにそんな金はなくなって、劇的に人生がよくなるわけでもない。

所詮「遊技」というだけあって、遊びに過ぎないのだから当たり前だ。

競馬好きで知られた作家の寺山修司は

「人生じゃ負けられないようなことでも、遊びでだったら負けることができる」

と言っている。ギャンブルはしょせん「遊び」である。だから、失敗したってまたやり直せる日がやってくる。


人生にも賭け時があると思う。
振り返れば私は就職活動で賭けきることができずに失敗した経験がある。

「どういう仕事をしたいのか」「世のなかをどうしたいのか」「何をして死にたいのか」という部分で確固たる意志を持っていなかった。きわめて中途半端な学生だったと思う。

要は「これだ!」と賭けきる「賭博の精神」がそこにはなかったのだ。だから銀行は誤ってわたしを拾ってしまったのだ。これはお互いに不幸な就職活動だった。

それだけに、銀行に内定したときに私は思ったのだ。「真にやりたいことのために、最後まで『書く仕事』に賭け切ればよかった―」と。

今でも「就活をちゃんとやっておけば」と後悔がにじむ日もある。
でも、もう一度レバーを引いて回り始めるスロットとは違う。次のレースがある競馬、競輪とは違う。

いわゆる「新卒の就活」というギャンブルのやり直しは、二度ときかないのである。就活という台のレバーは故障して、二度と直ることはない。

こんな風に、人生には何度か、賭博の瞬間がやってくる。結婚もそうかもしれないし、死ぬ可能性のある大病をしたときに治療をするかしないかとか、そういうときなのだろう。女性にとっては子供を産むこともその一つにあたるかもしれない。

そういうときに後悔するのはもうごめんである。しかし、間違ってもその時に「馬券を買わない」などという選択肢を取ってはならない。
だからこそひとには、時にひとつの選択に全人生を賭け切るギャンブラーの精神が必要だ。
唐突にやってくる、人生の賭博の瞬間のために…。

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