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書き言葉には人が出る
自らの書いた文章を発信して公衆に晒すという行為は、作家をはじめとした「力のある人」にだけにしかかつては許されていない行為だった。
それだけに、ろくにインターネットが発展していなかったころに友人が書いた文章に出会う経験はほとんどなかった。
中学生の頃に「作文ノート」なんてのがあって、配ったりするときにちらりと他の人のやつを見ていた。悪いやつだなと思うのだが、そうでもしないと人の書いた文章を見るという機会は私にはなかった。
不思議なもので人の文章は見たいのだが、かたや自分が書いた文章を人に見せるとなると恥ずかしかったりして、あまり気が進まないものである。
文章に自分の胸中が吐露されていたりなんかして、自分自身が隠している部分や見られたくないものが白日のもとにさらされているような感じがしたのである。
「だったら文章に本音なんか書かなければいいだろ」
というのは確かに正論ではある。
だが本音のない文章など余暇をつかって進んで書く必要はない。言葉を紡ぐ必然性を失っている。「本音のない文章を暇な時間で書くほど暇じゃねーよ」という話なのだ。
いまはSNSなんかでだれかが書いた文章を読むことも多い。インスタグラムやらフェイスブックやらツイッターやら、たくさんの言葉が情報としてこの世界にあふれている。
SNSには、本音なのだろうが悲痛な叫びみたいな文章も多い。自身の主張を武骨に記しただけの文章もある。かたや奇天烈で面白い文章もある。
大半の文章は一体誰が書いたのかもよくわからないが、一部には友人が書いた文章もある。
顔を見知った人が書いている文章というのは、非常に興味深い。面白いモノで、書き言葉には人間性が良く出るなあ、と思う。
最近、人当たりもよく非常に優しい友人が書いている文章に触れる機会があった。三島ほどではないにせよ「意外と文章はマッチョだな…」と感じたのを覚えている。たしかに彼のことを考えてみると、内に秘めた信条は強い。そういう精神性が表れたのだろうなあと思った。
スマートな人というのは無駄な言葉を書かない。だからスパッとした物言いで、基本的に文章も短い。頭の良い人とか仕事ができる人に多いのだが、そっけない物言いだったりすると一つの状況に対して「本当にそれだけしか感じていないのか」と思ったりする。
もちろん、言葉を選んで書いているのだろうとは思うがーー。
そして、これはあまりよくないのだが、「若干このひとには異常性があるな」と思った人の文章にはやはり異常性がにじみ出ている。
そもそも文章を誰に伝えたいのかわからず虚空に放っている感がすさまじい。一方的に、脈絡もなく、論理も破綻しており、そして急に別の話になったりしながら文章を書き散らしていることも珍しくない。
具体的には、陰謀論に毒されているひとの文章が典型的である。こう言えば、何となくその文体の雰囲気がわかると思う。
言葉は内容を理解するのみならず、言葉の連なりが生み出す不思議なオーラのようなものを味わうのもまた一興だ。同じことを経験しても、人によって文章から放たれる色や鮮やかさが異なり、だからこそ言葉は面白い。
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