「生きるって何だろうね」と考える。

訃報のたびに思う。
生きることってなんだろうね。


私の今感じていること・備忘録・それでいて必死に伝えたいこと



本日12月19日、日曜日。
法事があった際に住職からのお話にこんなものがあった。

「生きている時間に対して、臨終とはごく僅かな時間です」
「その臨終の先、その方の未来に皆さんは今日祈っているのです」

まさに輪廻転生の仏教の教えである。

この法事とは私の父の父、祖父の37回忌であった。
37という数字と、祖父の妻である私の祖母は御年90歳を超えていること、参列する親戚が増えたり減ったりすること、これらは年月の重なりと人々の営みを感じさせた。

総勢25名ほどだったであろうか。

亡くなったあとにこれほどの人数の人々に37年もの間、その思いが繋がれてきたのだと思うと、とてもではないが「祖父は愛されていた」という言葉では言い表せないように思う。

私は若くして亡くした祖父に会った記憶がほぼなかった。ましてや、その後に生まれ変わったであろう人間、住職曰く「どこかで生まれ変わった、今では37歳くらいの方」がどこいるのかは当然皆目検討もつかない。

だが、私は幼い頃からの両親の教えで葬式や法事に参列することは多く、「生と死」を考えることは人よりも多かったのではないかと思う。

そして前職は介護の仕事をしていた。
4年制大学を卒業したのち、とある大手のグループ会社に就職をした。それが介護職である。

もとより終末期医療に関心があったため選んだ職業だった。

この仕事の中では、私を含めた人々の、まさに「人間の生き様」が溢れていた。

当然、看取ることもあれば、新しく迎えることもある。
認知症の方が、私に対し 暮らしの中ではとても聞くことがないであろう暴言を浴びせたり、
はたまた排泄物を投げて来ることもあった。はたまた、「死にたい」と口にしながらも本能に従って 味噌汁を食む。

そんなことがあったと思えば、あちらでは認知症になったことが嘘のように、ご家族と昔の話を楽しそうにする姿を見ることもある。
「出会えてよかった」と心からの思いを伝えてくださることもある。

まさに「生き様」「人の営み」であると思う。

しかし今ここで述べたいのはこの介護職での話ではない。

これまた私の話ではあるが、
言葉を知り始めた幼少期から法事や葬儀に両親に連れられて参列し、
仕事でも生死(寄り添っていたつもりだが、どうであったかは分からない)について半ば執着してものを考えていた私が、

一つ、本日(12月19日)の祖父の法事と、そして朝にあった出来事で、
言葉が目まぐるしく、生まれいづることになったため、ここに記すことにした。

ここは備忘録であり、それでいて必死に誰かに伝えたいことでもある。

お付き合い願えたら、心からの幸いである。



そしてこれから先に述べるのは、本日未明に発表された女優さんのご逝去について触れている。
私自身、彼女を応援していた一人であり、ましてや死の原因などに触れるつもりはない。ただ今私が感じる「生き・死に」について、を言葉にしたいと思う。

かなり思いテーマであると思うし、なにより

言葉に細心の注意を払って綴ってはいるが、
同じく彼女のファンの方は、どうか無理をせずご自身のお気持ちを大事にして 過ごしてほしいと思う。




朝、携帯でツイッターのタイムラインを見ていると、フォローをしている劇作家の一人が、私の好きな女優の名前を挙げて、沢山の言葉をかけていた。

その末尾には「残念です」という言葉があった。

恐る恐る検索をかけると、彼女の訃報のニュースが続く。

息を呑んだ。声にならないというのはこういうことを言う。

暫く何もできなかった。

「冥福を祈ります」

彼女のことが好きだったたくさんのファン、作品のファンからの追悼が溢れていた。

しかし、私はそんなことを言えるような心情ではなかった。

いまでも信じられずにいる。

コロナ禍で、配信のみで行われた朗読劇で板に立つ彼女を初めて拝見した。

以前より、歌を聴いたり出演しているアニメ作品を観ていたが、舞台に立つ女優の彼女を観るのは初めてであった。

朗読劇の舞台であるから その場から動くことはないのだが、舞台上で生き生きと芝居をしている彼女。

まるで舞台上を動き回っているかのような長けた表現力。

まるでこの舞台である1917年の直後であるかのように感じた。画面を介した配信でこれである。

ちなみに一緒に舞台に立っていたのは、大ベテランと言われる大御所から実力派と言われる声優たちである。まったく遜色がなかった。

(あとから知ったことだが、彼女は1から声優の育成所にかよっていたという。)

いまでも、彼女の可憐な姿が目に浮かぶ。

可憐でありながら、計り知れない努力でこそ築きあげられた歌と芝居、そしてそれはけして表に出ることはなかった。

いまでも、彼女の揺るがない透き通る歌声が聴こえる。

毎日彼女の歌を聴きながら出勤して、もはや生活の一部のルーティングになっていたからこそ、歌声を再生できない。
様々な人が同じ歌を歌っているが、彼女の歌しか聴けないと、その「絶対的」を感じていた。

いまでも、楽しそうにユーチューブの配信をしていたことが目に浮かぶ。

コスメの話をしたり、カバンの中を紹介したり、コスプレをしてご飯を食べていたり。
おちゃめな人で、常に楽しいことをしようとしていた。普段見せないリラックスをした表情が可愛らしく好感であった。

そんな彼女が、と思うと今でも涙が落ちるばかりであるし、詳細に触れないまでも"そのとき"を思うと悲しくて、悲しくてたまらない。

私は彼女の死の原因については一切言及する気はない。それは私たちが言及するものではないと思っているからである。

また 私はその最期のあり方によって、なかばその人の過ごしてきたこれまでの人生の価値が変わったり、決まってしまうような風潮が苦手であるからである。


コロナ禍が続いている昨今、まだ劇場にいくのは怖いと感じて私が見送った舞台、この舞台に出演予定であったらしい。 


痛かったろう、寒かったろう。

辛かったろう。


私はつねづね思う。

死のあり方の真実はどうであれ、

その人は「悲しいまま」「苦しいまま」逝ってしまったのだと感じてしまう、心が痛くてたまらない

そして私は、今生きているから、悲しいままなのだと。
生きているのは非常に辛いことであると思う。

ときに、死んでしまえば楽になるのかもしれないと感じたこともある。(介護の仕事をして身体を崩した経験があるのもこの一つ理由にある)

だが、生きているならば「苦しいまま」ではない。きっとない。

これは結果論であり、いわゆる綺麗事にすぎないが、
いつかきっと、わずかであれ頬が緩む瞬間があると信じている。

だからこそ、今回のことが事故であれそれが自らの手であれ、真実がどうあれ、

「痛いまま」「悲しいまま」「苦しいまま」亡くなってしまったのが、切なく、苦しく、堪らなく悲しい。

そしてそれと同時に、

どうか、

どうか、

もう苦しまなくていいように。

この、もう苦しまなくていいように、というのは 一部の憶測によるネットニュースにある彼女の死の理由について述べているのではない。

才能と努力の人であった彼女が、
人には見えないところで計り知れない苦労をしていただろう。
想像しかできない身でありながらも、きっと様々な苦労や様々な言葉を目にし続けていただろうと思う。

だからもう、苦しまなくていいように。

今までの沢山の楽しかったことや、たくさんの愛されていたことを胸に抱えて

どうかもう、悲しむことがないように。

沢山努力をしていた貴方だからこそ、いつもとても忙しくしていた貴方だから、
そのぶん沢山、そしてゆっくりと休んでください。と。

そしてまた私は、ふと思うのである。

これこそが「冥福を祈る」ことであると。

この無機質にみえる言葉こそ、死後やそのあとを祈る、福を祈る。

私はまだ未だ信じられない上に、
「冥福を祈る」という言葉を使えば認めてしまうようで意地をはっているのも事実であるが。

冒頭に話した住職の話、「その臨終の先、その方の未来に皆さんは今日祈っているのです」

人は祈ることしかできないのだと思う。

深い深い悲しみの先に、人は祈ることしかできない。

だが、
(これもまた綺麗事であるが、)祈ること・想いをかけること、が生きている人間のできる最大の行為であると思う。

私が先日したツイッターの配信、スペースでも述べたが
「死者は、生きている人間の中でしか生きられない」

このことに尽きると私は思う。

思い出の中で生きる。

生きている人間が亡くなった人の想いを胸に抱いていく。

だからこそ、私の祖父がそうであるように37回という数字を重ねた法事が執り行われるのだと思う。

だからこそ、私は大好きな彼女を思い続ける。

今まで沢山の感動と笑いと幸せをありがとう。

お疲れ様でした、と。

どうかずっと温かい気持ちに囲まれて、その胸に素敵な思い出を抱いていてください。

「生きることは何だろう」とたまに考えるが、沢山の解答があると思う。

きっと死ぬその瞬間まで問い続けるように思う。思いをいだき、綴りながら。

最後に、ここまでの長い文章に目を通して下さったすべての方にお礼を申し上げたいと思います。

ありがとうございます。


そして最後の最後、
わたしの伝えたいことが一つ。

この件について、裏では(私にとっては裏側でありその方々には表側)ではアイドルグループの番組に関したツイッター上での企画が行われていたらしい。

どうやら、ツイッターのホットワード1位や上位になることがその企画の趣旨であったらしい。

その中で、一部のファンが、彼女の名前を挙げて不謹慎他ならない言葉を綴っていたことが あったという。

しかしながら、企画遂行に一生懸命であった一部のファン達がこの度逝去した彼女の記事の中身を読んでおらず あとから不謹慎なことを言ったと反省していた。

私はこの件について、このアイドルグループのファンを擁護するつもりはない。

しかし、どうか、どうか、言葉を発する前に、その胸の中で握り直してほしい。

それは、この不謹慎なファン達に対してだけではない。

この件を知った彼女のファンが、不謹慎なツイートをしたユーザー達を吊るし上げるという行為をしているのを目にした。

SNSの使用法について、他人にとやかく言うつもりはない。

そして、その、言葉に言葉による制裁をくわえること、気持ちは分からなくはないとも思う。私も一人の人間である。

だが、どんなにひどいこと言っていたとしても、私達が、その人々を吊るし上げること、暴言を吐くこと、ましてや実力を持って行使するなどというのはけして許されないと思っている。

どんなに腹が煮えくり返る想いでも、その人に対して同じことをしていい理由にはならない。

そんなことをしたら、同時に私が大好きな彼女もまた傷つけてしまうようで心が痛い。

私達ができるのは、「そのようなことを言っては傷つけてしまう人がいる」と優しく伝えることだったり、そしてツイッター社が設けている「通報」というコンテンツを利用することだけだと思う。

法に訴えるなら当然私達ではなく、遺族や所属事務所であると思う。


悪意が、もう誰にも向けられないように。



どうか、貴方の大好きな人が心無い言葉に晒されていたとしても、その言葉の張本人を見つけ出して心無いことをしないでほしい。

綺麗事でしかないが、
人は想いを紡ぎつなげることしかできない。

SNSとはすぐに言葉や想いを届けることができる、瞬間的につながることができる。

よく耳にするのは「指先一つで」

指先一つだからこそ、もう一度振り返って言葉を繋いでほしいと思う。

私一人が言っているわけだが、どうか様々な人の心に一つでも届いたら幸いである。

本当に最後に。
ここまで付き合ってくださった方、貴重なお時間と想いを、ありがとうございます。

そしてそして、沢山の人に愛された彼女。

たくさんの思い出をありがとう。
ずっとずっと大好きです。

心からのご冥福をお祈りしています。

2021.12.19   Sushineko.


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