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【小】薄月の夜に


 薄月の明かりの下、猫の歩いているのを見ると、祖父を思い出す。彼は肺水腫で亡くなってしまった。一昨年のことだ。

 晩年、祖父は祖母と二人きりで古くだだ広い平屋で暮らしていた。その平屋は昔ながらの木造で縁側があり、私はよくそこへ腰掛けて寛ぐ猫背の祖父を見た。ただそうしているのは暖かい時期だけのことで、肌寒くなっていくと居間から出なかった。極端に寒がりな人で、十月くらいになるともう「早くこたつを出してほしい」と祖母にせがんだ。
 祖父は茫洋としていてまるで猫のような人だった。猫背で寒がりなところも猫らしいがそれだけでなく、猫っ毛でもあるし、水が嫌いでなかなか風呂に入りたがらない。おまけに猫舌で味噌汁は冷めてからしか飲まないし、そのうえ野菜が嫌いで肉や魚ばかり食べる。穏やかな性格で活動的なわけではないが、どこか身のこなしはしなやかであった。
 私は幼い頃、祖父は実のところ人でなく猫妖怪なのではないかとずっと疑っていた。そしてその疑念を裏付けるような出来事がある夏の夜に起こった。
 

 
 あれは確かまだ私が小学生だったころだ。梅雨のじめじめとした空気が残る蒸し暑い初夏の頃、私は母と妹と共にに祖父母の家へ泊まりに行った。その日の夜、母と妹がすやすやと眠っている隣で私はなかなか寝つけなかった。
 祖母が気を遣い、桶に氷水を張り濡らしたタオルを絞ってくれた。それを額に当てると冷やっとして心地が良いのだが、それでも蒸し暑く目が冴えてしまう。仕方がないので薄目を開けてじっと天井を見つめていると、段々と木目が人の顔のように見えてきてさらに辛くなった。
 〈ニャー〉
 そのときふと猫の鳴き声がして、続いてガラガラと引き戸を開ける音がした。
 この家では猫は飼っていないはずだ。私は祖母に尋ねた。
「おばあちゃん、いま猫の声がしなかった?」
すると祖母は、
「ああ、そうだね。今日もお迎えがきたみたい。」と言った。
「いつも来るんだよ。毎日ではないけどね。一週間に一度くらい、近所の野良猫がおじいさんを迎えに来るんだ。」
「迎えに?どうして?」
「さあ、どうしてかねえ?わからないけど、ごていねいに迎えに来るの。」
 そして、くすくす笑った。

 やがて祖母は私を寝かしつけるのを諦め、
「じゃあ、一緒に猫と祖父の後をつけてみようか。」と提案した。私は迷うことなく快諾し、寝間着の上から祖父の薄いブルゾンを一枚羽織らせてもらって外へ出た。祖母は押入から小さな古い型の懐中電灯を出してきてカチッ、と電源を入れた。
 じめじめとした夏の夜、私ははやる気持ちを抑えながら息をひそめて祖母と歩いた。五十メートルくらい先に、祖父の丸まった背中が見えていた。さらにその少し先を一匹の三毛猫がゆったりと歩いている。私たちはその後をつけて歩いた。
 三毛猫と祖父は空き地の前で立ち止まり、ゆっくりと中へ入っていった。そこは誰かの持ち家だったのを取り壊している途中で工事が止まっていて、ほぼ廃墟のようになっていた。もともと柱や床だったものは朽ちてしまっているが少し残り、その間から色んな雑草がほうぼうに生えている。
 私と祖母は祖父に気づかれないように、少し離れた電柱の影からうまく頭だけを出すようにして空き地を覗き込んだ。
 すると十匹ほど――それぞれ多様な模様をした猫たちが、朧月の明かりの下で輪を作って集まっており、その輪の中に祖父もいるのであった。猫たちは何かを話すわけでもなく、寛いだ様子で互いに見つめ合っていた。私はその輪の中に、さも仲間の一員だという風に祖父が含まれていることが心底可笑しく、声を殺して笑った。気がつくと私の頭上で祖母も笑っていた。

 結局その日は寝間へ戻ったあとも眠れなかった。私は日が昇り始めてから少しだけうとうとしていたところを何も知らない母に揺り起こされ、寝ぼけ眼のまま朝の食卓についた。すると祖父が何食わぬ顔で焼き魚をつついていた。私はそのとき〈おじいちゃんは、人じゃなくて猫だ。本当に猫なんだ。〉と思ったが、それを口には出せなかった。


 
 祖父が失踪したとの報せがあったのは、一昨年の梅雨に入りかけた頃だった。母も祖母も慌ててひどく憔悴した様子だった。それと対照的に私は祖父のことを心配しながらも、どこか冷静だった。猫は死ぬ前に姿を消すというから、祖父は自分の死期を悟って姿を消したのではないか――と思ったからだ。
 実際、祖父は見つかった三日後に亡くなった。彼が望んだ通りの最期になったかどうかは分からないが、家族みんなに見守られて逝った。なかなか苦しそうではあったが、息を引き取るその時は穏やかな表情をしていた。
 
 祖父の葬儀が終わったあと、祖父母の家で祖父の遺品を片付けていると、ふと一匹の猫がやってきて縁側へ腰を下ろした。珍しい灰色の毛に、美しい栗色の目をした猫だった。私はその毛色を見て祖父の白髪を思い出した。
 その猫は昼過ぎ頃にやってきて、夜になるまでずっと縁側に座っていた。祖母はその猫に、祖父の大好物だったヨコワの刺身をやっていた。
 私も猫に何か上げようと思ったが、何を上げたらいいか思いつかなかった。これが最期の贈り物になる、と思うと決めかねた。やがて月が登ってきたが、その日もみごとな朧月で湿った風が吹いていた。
 私は縁側の、猫が座っているところとは少し離れたところへ座って、ぼやけて滲んだ白い月を眺めていた。濃紺の夜空から庭へ目を落とすと、紫、水色、白の紫陽花が見事に咲き誇っている。次の瞬間、灰色の猫は縁側から下りてその紫陽花が生い茂る中へ姿を消した。
 


 以来あの灰色の猫が家にやって来るかと祖母に尋ねるが、あれから姿は見ないらしい。それからというもの、私は薄月の夜に猫を見るとつい灰色の毛のものがいないか探してしまうのだった。

 

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