見出し画像

【小】翠色のヴェール


 山のふもとに小屋があり、そこに若い絵描きの青年が一人で住んでいました。青年は名前をススといいました。
 ススは自然をこよなく愛し、とても美しい風景画を描くのですが、絵を描くこと以外に関しては何をやってもだめでした。特に掃除は大の苦手で小屋の中は散らかり放題、紙くずや絵の具だらけで足の踏み場もありません。
 ある朝、窓際のベッドで寝ていたススは風の音で目を覚ましました。どうやら昨日はひと晩じゅう窓を開けたままで寝てしまったようでした。毛布や寝巻のそこかしこにどこからか飛んできた木の実の皮や花びら、葉っぱがくっついています。ススが寝ぼけ眼で机の上を見ると、開いた窓から入ってきた鳥たちが食べこぼしのパンくずをつついていました。
 ススは寝ぼけながら、取っておいた小麦や粟の残りを台所から引っ張り出してきてそれも全部鳥たちにあげてしまいました。ススにとって鳥は大切な友だちなのです。それからひとつ、大きなくしゃみをしました。ススは、このまま風邪を引いてはいけないと思ったので、すぐに日光浴へ出かけることにしました。


 小屋を出るとすぐ脇に、3メートルほどの幅の小川があります。この小川は山の頂上から流れてきているのでした。ススはよくこの小川沿いを下流へ向かって歩くのですが、今日は上流へ向かって歩いてみようと思いました。
 川面を眺めながら歩いていると、ススは思い出しました。そういえば、公民館のロビーに飾る絵を書く仕事を頼まれていたのでした。〈ちょうどいい、絵の題材になるものを探そう。〉ススは思いました。
 しばらく無心のままに歩いていると、何やら上流の方からにぎやかな声がするような気がしました。一体なんだろうと思って、ススは歩みを早めました。
 ところが、なかなか声の元へは辿り着けません。おかしいのです。確かに声は聞こえており、そちらへ近づいているはずなのに、声の方がだんだん遠ざかっていくような……不思議な感じがしました。
 ススは途中で引き返してしまおうかとも思いましたが、やはり気になるので声の方へ向かって川沿いを歩き続けました。そして、気がついた頃には山の森の奥へ入っていました。
 山の森の奥は背が高いブナやナラの木がたくさん生い茂り、薄暗いのですが、木々の間から陽の光が差し込み所々明るくなっています。ススは一休みしようと、木漏れ日が差し込む大きな岩の上へ腰を下ろしました。するとついに声の正体がわかったのです。
 ススが座った場所からは、さらに森の奥にある小さな滝つぼが見えました。その滝つぼのほとりで、どうやら十数人ほどで結婚式をしているらしいのでした。
 〈こんな場所で結婚式をするなんて、珍しいこともあるものだ。〉ススは思いました。森の中はうっそうとしており、結婚式をする人たちの他に人気はありません。
 それでも、参列している人たちは遠目からでもわかるほど、皆幸せそうな笑顔を浮かべていました。ススは身体を低くしてそうっと滝つぼの方へ近寄っていきました。
 滝つぼのほとりには、空木や色とりどりの紫陽花の花がたくさん咲いています。参列している人たちは滝つぼの岸に沿って並んで何か歌を歌っており、その前を花嫁と花婿が手を取り合って優雅に歩いていくのでした。
 そのときです。花嫁の顔にかかったヴェールの色のあまりの美しさに、ススは目を奪われました。
 そのヴェールは、美しい青と緑が混ざった翡翠のような色をしていました。そして光が当たると、今度はその部分だけ虹色にキラキラと輝くのでした。それはまるで、この世のものではないような美しい輝きで、ススは思わず立ち尽くしてしまいました。
 やがて花嫁と花婿は、列の端まで歩き切るとゆっくりと立ち止まりました。花婿が花嫁の前で、地面に膝をつきその美しいヴェールを優しくめくり上げると、玉のように可愛らしい、花嫁の素顔があらわになりました。

 そこまで見てススははっと我に返り、来た道を飛ぶように走って家へ帰りました。滝つぼのほとりの結婚式の様子を、そのまま絵にしてしまいたいと思ったのです。ススは食事を取るのも忘れて、結婚式の絵をひたすら描き続けました。
 すっかり日が暮れたかと思うと、あっという間にその日が上り朝がやってきました。絵はほとんど完成したのですが、花嫁のヴェールの色を出すことにススは苦労しました。ススは貝殻を砕いて、青と緑の絵の具に混ぜました。それでもうまくいかないので、小屋の床に転がっていたクサギや柘榴、ブルーベリーの実を潰して混ぜました。
 やっとのことで出来上がった絵は、とても素晴らしい出来栄えでした。ススはキャンバスを抱えて意気揚々と公民館へ向かいました。

 公民館の、髭が立派な館長もススの絵を気に入りました。
「結婚式の絵とはおめでたい。これは、ロビーの一番目立つところに飾りましょう。」
 ススの絵は立派な木製の額縁に入れられ、公民館のロビーの大きな窓に面した壁に飾られました。ススは無事に絵を仕上げられたのですっかり安心して、家に帰って丸2日眠りこけました。


 ジリリリリリ……
 めずらしく電話のベルが鳴ったので、ススは飛び起きました。
 紙くずの山の中から電話を掘り起こし、出てみると、電話の相手は髭の館長でした。
「スス、君の絵を見て、どうしても君に会いたいという人がいるんだ。急いで公民館へ来てくれないか。」
 ススは驚きました。これまでたくさん絵を描いてきましたが、そんなことを言われるのは初めてだったのです。

 ススが公民館に着くと、一人の可愛らしい女の子がロビーのソファに小さく丸まって座っていました。女の子は、ススがやってきたのを見つけると立ち上がり駆け寄ってきました。
「あなたが、この絵を描いたススさんですか?」
「はい、そうですが。」
「お会いできて嬉しいです。」
そう言って、女の子は目にいっぱい涙を溜めました。ススが訳を聞くと、女の子は言いました。
「この絵を見て、お姉ちゃんの結婚式の絵だ!と思ったんです。」
「お姉ちゃん?君のお姉ちゃんってことかい。」
「はい。この間、山の森の中で結婚式だったの。でも、お姉ちゃん、結婚式をしてすぐに、死んじゃったんです。旦那さんも、後を追うように……」
 女の子はそこまで言うと、喉をつまらせてしまったのでした。
 ススは言葉を失いました。
〈あんなに美しい式を挙げて、皆に祝福され、幸せそうだった二人が亡くなってしまったのか……どうして……〉
 ススは驚き、悲しみに暮れながらも、妹だというその女の子の肩を優しく叩いてやりました。美しい女の子はしばらく泣きじゃくっていましたが、やがて泣き止み、真っ直ぐにススを見て言いました。
「ススさん、お姉ちゃんの結婚式を描いてくれてありがとう。この素敵なヴェールの色。お姉ちゃんが大好きだった色なの。」

 ススは、せめて花嫁の妹だという女の子にこの絵をあげたいと思い、
「君にこの絵をあげるよ。ここに飾る絵は、また新しく描けばいいんだから。」
と言いました。でも、女の子はそれをことわるのでした。
「いいんです、いいんです。その代わり、毎日この絵を見に来てもいいですか?」
「それは、もちろんいいけれど、でも……」
 ススはやっぱり女の子に絵をもらってほしい、と言おうとしましたが、女の子は続きを聞かずに走って行ってしまいました。

 その日家に帰ってからも、一晩じゅうあの女の子のことが気になっていたススは、次の日も朝早く起きて公民館へ向かいました。ススは〈もしあの子が来てくれたら、今度こそ、無理にでもこの絵を受け取ってもらおう。〉と胸に誓いを立てました。
 けれども、その日も、その次の日も、女の子が公民館に来ることはありません。代わりに一羽の小さな翡翠(かわせみ)が、窓の外の木の枝へ止まって、ススの絵をずっと眺めているのでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?