“コンテンツ”から“人”へと成り下がったVTuberとそのガチ恋勢について

VTuberは当初は1つのコンテンツであった

現在もVTuberはVTuberというコンテンツではあるが、私の言いたいことはそういう意味ではない。
VTuberという一人のキャラ自体が遊園地のアトラクションのような、コンテンツであった。

いわば「VTuber」は遊園地(ディズニーランドやUSJといったハコ)であり、キズナアイ、ミライアカリと言った個人はイッツアスモールワールドのようなアトラクションのようだった。

これは、キズナアイやミライアカリが企業系VTuberであり、芸能人のような触れにくい存在だからだったのではないかと考えている。
彼女たちが当初活動し始めたとき、配信でスパチャを読む文化ももちろん無かったと記憶している。(当時には詳しくはないのでそうではなかったらすみません)
スパチャを読む文化が浸透したのはホロライブ、にじさんじなどの個人系を囲うグループが大きくなってきた頃ではないだろうか?
その頃からVTuberへのガチ恋勢が散見するようになってきたと推測する。
彼女たちは(男性もいるが彼女と表記させてもらう)スパチャを貰うとそれを読み、送ってくれた人に名指しで感謝する。それに気を良くしたリスナーがさらに自分の存在を知らしめるためにスパチャをする、名前を呼ばれたリスナーはVTuberに認知されたと勘違いし、ガチ恋を拗らせるといった負のスパイラルが完成する。

ガチ恋勢のスパチャの行動理由に関して

私には推し君がいる。その推し君は芸能人であり、けして触れることのできない存在だ。だからこそ私は割り切って読まれなくてもいいからと「推し君」というコンテンツにスパチャをする。リターンは推し君というコンテンツの継続である。
しかし、ガチ恋勢はリターンに「認知」を求める。VTuberを個人として認識し、画面のこちら側に降り立ち接触をしてくれることを期待してスパチャをするのだ。
彼らは、スパチャを交友ツールとして使っている。
彼らは、VTuberをコンテンツではなく肉体を持つ人間としてスパチャする。
つまり彼らは画面から出てこない接触できないVTuberにはスパチャしないのではないかと考える。(しかしスパチャするVTuberもけして画面から出てこないのは明白ではある)
彼らにとってスパチャとは「応援」の意味ではなく「自分へのリターンのため」のスパチャなのだ。

短文or無言で高額スパチャを投げる人間に関して

私は以前の記事で推し君へのスパチャに文章を書いたら最低金額500円になったことを書いた。
クソでか感情にはお金がかかるのである。
しかし世の中には10.000円もしない文章でそのスパチャを投げる人間がいる。
応援の気持ちを送るのではなく、ただただ自分の存在を相手に知らせるために投げるのである。
正直私はこのたぐいの人間は気持ち悪いと感じる。
スパチャを投げるなら見合った文章を書いたほうが投げる理由があって気持ちいい。しかし怪文書はやめろ。

最後に

私はガチ恋勢のスパチャは認知の手段だと思っているためあまり良い感情は持っていない。
気持ちよく推し活するために、コンテンツにお金を払っているのだ。
また、昨今のVTuberは個人の側面が大きすぎるためガチ恋を拗らせさせていると感じる。
コンテンツでなくなり人になってしまった推しは推しではなくなるのだ。
私はこれからも推しというコンテンツにスパチャをしたい。

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