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君たちはどう生きるか(1982)②

この記事は、君たちはどう生きるか(1982)①の続きになります。
よろしければそちらもご覧ください。

※この記事は、物語の内容の主要な部分を引用して言及しています。
閲覧の際はご自身の判断でお願いいたします。



4.貧しき友

冬のある時期、コペル君はよく居眠りをしてまで学校に来る浦川君がニ、三日学校を休み続けていることに気が付く。
放課後、北見君からのフットボールの誘いを断って、浦川君の家にお見舞いに行くことにした。
浦川君の家は、コペル君のお父さんのお墓がある墓地の近くの、狭い通りの近くにあった。
魚屋や八百屋などがひしめき合うじめじめとした通り。
人通りは多いが、自転車に乗っている長靴の若者や、きたない身なりの子供たちが飛び出してくるような、変なにおいのする通りだった。
コペル君が浦川君の豆腐屋に着くと、店の奥で仕事をしている浦川君を見つける。
コペル君は浦川君の家に上げてもらい、学校の勉強の進み具合などを話すことになった。
そこでコペル君は、浦川君は病気ではなく、浦川君のお父さんが、家に必要なお金を工面するために伯父さんのところへ相談に行っていることと、店に勤める若者が風邪をひいてしまったため、人手が足らず、学校を休んで働かざるを得ないことを知る。
このことは誰にも言わないでほしいと浦川君から言われ、コペル君は誰にも言わないと固く約束をした。

その時、浦川君の妹が、弟たちと一緒におやつの鯛焼きを持ってきてくれた。
コペル君は鯛焼きを食べるのが初めてだったが、横で食べたそうにしている浦川君の弟に自分の分を分けてやった。

コペル君が帰るころ、浦川君の家にお父さんから電報が届く。
話が付いたので今夜には帰る、という内容に浦川君は喜んだ。

コペル君はその日のことを叔父さんに話した。
叔父さんはコペル君に、コペル君と浦川君との違いは何かと聞いた。
コペル君は、浦川君の家は貧乏だけど、自分の家はそうではない、と答えるが、それ以外には思い浮かばなかった。

叔父さんはその晩、いつもより長くノートに貧乏ということについて書きつけた。

貧しい浦川君、そうではないコペル君。
それぞれが自分の境遇に引け目を感じたり、驕り高ぶったりしなかった。
そんな風にお互い優しい素質を持っていたから歩み寄れたのだということ。
人間の値打ちは、その人の着ているものや住んでいる家や、食べているものにあるものではない。
自分自身のおかれている境遇に引け目を感じたり、驕り高ぶったりするようではまだまだなのだ。
ただし、そうはいっても貧しい人は傷つきやすい心を持っている。
それは、コペル君自身が同じ境遇に立って経験するまでは、顧みなければならない。
そういったことを今だけでなく、大人になっても覚えていてほしい。
なぜならば、今の世の中で大多数を占めているのは貧しい人々だからだ。

コペル君は浦川君の家に行ったことで、自分の家よりも、浦川君の家の方が貧しいということを知った。
しかし、浦川君の家は、豆腐を作る機械を持ち、大豆を買い付け、若者を雇い、店を切り盛りしていくだけの力があるが、この世界にはそれよりも貧しい人々がいるのだ。
例えば浦川君の家に雇われている若者の一人は、生計を立てる方法は自分の体しかない。
万が一不治の病などで体を壊し働くことができなくなったら、命に関わることになるのだ。
それではダメだ、とコペル君は思うかもしれない。
人間らしい心を持っていれば誰でもそう思う。
でも、どんなにこのことを残念に思っても、今も貧困という問題はある。
どれだけ人間が進歩していたとしても、この問題を解決するには至っていない。
だから、今コペル君に覚えていてほしいのは、君のように何の妨げもなく勉強ができて、自分の才能を思うがままに伸ばしていけることがどれだけありがたいことかということだ。

コペル君!「ありがたい」という言葉によく気をつけて見たまえ。この言葉は、「感謝すべきことだ」とか、「御礼をいうだけの値打がある」とかとい意味で使われているね。しかし、この言葉のもとの意味は、「そうあることがむずかしい」という意味だ。「めったにあることじゃあない」という意味だ。自分の受けている仕合せが、めったにあることじゃあないと思えばこそ、「感謝すべきことだ」という意味になり、「ありがとう」といえば、御礼の心持をあらわすことになったんだ。

君たちはどう生きるか(1982),p136

最後に、コペル君は「網目の法則」で人間どうしの結びつきを考えていたが、苦しい境遇で働く人々と、割合に楽に暮らしているコペル君たちとは普段からあまりかかわりなく暮らしているが、実は切っても切れないつながりがある。
それは、生産者と消費者というつながりだ。
確かに、貧しい境遇に育ち、小学校を終えただけですぐに働きだす人々は、コペル君に比べて知識の量でいうと劣るかもしれない。
しかし、見方を変えると、あの人々こそこの世の中全体を背負っている人たちなのだ。
それに比べて、コペル君たちは何かを生み出しているだろうか。
まだ使う一方で何も作り出してはいないのだ。
それだから、浦川君とコペル君との大きな違いはこの点にあるのだ。
浦川君はすでにものを生み出す人の側に立派に入っているのだ。
たとえ境遇上やむを得ないからとはいえ、嫌な顔をせず働いていることに対して、尊敬をするのが本当なのだ。


少々啓発的な色の強い章であった。
ありがたい、のくだりでは少し説教じみた感じも受けたが、それまでのコペル君の経験との関連が深かったので、ただ「ありがたい」の成り立ちを説明されるよりも、より納得感があった。

最近ありがたいと思ったことは何だっただろうか。
近頃そういう時期なのか、外で工事が行われていることが多い。
歩道がふさがれるような工事の時は、交通整理員の方が我々歩行者を誘導してくれる。
車が来ていないかを道路に出て確認してくれ、工事期間中だけ設置される歩行者用通路に誘導してくれる。
自分の安全を二の次にして、見ず知らずの歩行者の安全を守ってくれる様子にありがたさを感じた。

この章で最後に叔父さんは「自分では気がつかないうちに、ほかの点で、ある大きなものを、日々生み出しているのだ。それは、いったい、なんだろう。(君たちはどう生きるか(1982),p141)」と問いかけているのだが、これが私にはわからない。
生み出すというイメージからいうと、芸術的な生産をまず思いついた。
叔父さんは、労働力を生産と結び付けていた。
ただし、そういうものとはほかの点で、ということなので、人々の役に立つようなこととは他に、大きなものを生み出しているというのはいったい何だろうか。
生物的な意味で血液だろうかとも大真面目に考えもしたが、きっと違う。
あとは精神的な意味で、相手を幸せにすること、とも考えた。
自分の中でピンとくるまで、コペル君のようにこの先の生活の宿題にしようと思う。


5.ナポレオンと四人の少年

コペル君は、北見君と浦川君と一緒に、水谷君の家に遊びに行くことになった。
水谷君の家は、玄関までに小砂利が敷き詰められた道があり、玄関には立派なポーチがあるいわゆるお金持ちの家だった。
家にあがると、かつ子さんという水谷君のお姉さんが出迎えてくれた。
かつ子さんは男勝りな性格で、服装はコペル君たちと同じようにズボンをはいていた。
かつ子さんは、三人が来るまでナポレオンの英雄譚を話していたのだという。
その続きを水谷君含め四人に聞かせた後、外でスポーツをして遊んだ。
お昼ご飯が済むと、北見君から、柔道部の黒川という上級生が北見君と山口を殴ろうと決めている、という噂話がされる。
北見君は何度か黒川に会った際、わざと挨拶をしなかったのだという。
その上級生は、自分たちの気に食わない人間はみんな間違った人間だとし、自分に制裁を加える資格があると考えているようだった。
その話を聞いて、浦川君が、北見君を守るために、北見君が殴られそうになったら僕たち三人も一緒に殴るようにいってやろうと提案する。
かつ子さんは、それでも殴られたら、かつ子さんのお父さんに校長先生に直談判するよう言うと言い、みんなで北見君を守ると固く約束した。

叔父さんはノートに、さらに詳しくナポレオンの行った事業について書き、その決断力や意志の強さについて述べた。
ただ、こうも書いた。

英雄とか偉人とかいわれている人々の中で、本当に尊敬が出来るのは、人類の進歩に役立った人だけだ。そして、彼らの非凡な事業のうち、真に値打のあるものは、ただこの流れに沿って行われた事業だけだ。

君たちはどう生きるか(1982),p192

そして、最終的には島流しとなってしまったナポレオンを例えに出し、このように書いた。

――君も大人になってゆくと、よい心がけをもっていながら、弱いばかりにその心がけを生かし切れないでいる、小さな善人がどんなに多いかということを、おいおいに知って来るだろう。世間には、悪い人ではないが、弱いばかりに、自分にも他人にも余計な不幸を招いている人が決して少なくない。人類の進歩と結びつかない英雄的精神も空しいが、英雄的な気迫を欠いた善良さも同じように空しいことが多いのだ。
君も、いまに、きっと思いあたることがあるだろう。

君たちはどう生きるか(1982),p195

この、ナポレオンにかける突然の異様な熱の高さに、ある種異質な驚きがあった。
歴史は苦手なので、この章は正直読むのが苦痛だった。
ただその中でも、最後に引用した部分は思い当たることがとてもあった。
どんな人もきっと悪い人間になりたいと思っている人はいないはずだ。
私もそうだ。
でも、それでも勇気が出なくて一歩踏み出せないせいで、助けられたものを助けられなかったとか、言いたかったことを言えなかったとか、守りたかったことを守れなかったとか、誰でも経験はあると思う。
何度も小さなそんなことを繰り返してはあきらめ続けて、今はインターネットもあるから、誰もがきれいな心を持っているわけではないことを知ってしまったりして、自分で自分に期待しなくなっていく。
毎日小さなことに幸せを感じたり、ちょっとしたことに笑ったりすることが少なくなっていく。
それってちょっと寂しい。
もう一回勇気を出してみたい。
結局それが自分がちょっといい気分になるだけのことだったとしても。
誰かの役に立つかどうかわからなくても。


6.さいごに

このあとこの物語は4章続くのですが、ここからこの本の中で一番面白い展開になるので、詳細な要約と感想はここまでにします。

全て読み終わってみると、心の中に残る端がきっちりそろえられた紙の束のような整いすぎている後味に、これは道徳の教科書だったのかな?という疑問がふわふわと浮かんできました。
あとがきを読んでみると、『君たちはどう生きるか』は、やはり当時の少年少女向けに道徳的な内容について書かれた『日本少国民文庫』という中の一編だったということでした。
当時の日本では中日事変から日中の戦争がはじまった頃で、ヨーロッパではムッソリーニやヒトラーが政権を取っていた不安定な時期だったようです。
言論や出版の自由は厳しく制限されていた中で、次の時代を背負っていく少年少女に、人間にはまだ希望のあること、当時の時代を超えた先に自由で豊かな文化のあることを伝えたいと、自由な執筆が困難な中で刊行されたものだったとのことです。

現代はインターネット、というよりSNSの時代だと私は思います。
『君たちはどう生きるか』が書かれた当時とは、人々の生活も、その生活を支える技術も大きく進歩していると思います。
でも、この本に出てきた人の網目は当時語られていたそのままの状態、むしろ希薄になっていることもあるし、貧困の問題も解決していません。
私は未来を担っていく若者、とはもう言えない年齢ですが、日常の小さなことに感謝したり、小さな人間関係も丁寧にとらえて見たりして、ちょっとずつ変化を起こしていくこともできるのかなとほんの少し希望を持つことのできる本でした。

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