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狂気と狂気のぶつかり合い『セッション』

『セッション』を観た。
前々から観たいと思ってはいたのだが、9年前の作品なので劇場で観ることはなかなか難しく、そろそろ諦めてレンタルしようかな……と思っていた矢先のこと。

映画『ギャガ・アカデミー賞受賞作品特集上映』公式サイト (gaga.ne.jp)

ありがた~~〜〜〜〜~~~い
まさか『セッション』がスクリーンで観られるなんて!!!
過去の名作を今 映画館で観れる瞬間ほどワクワクすることはない。手帳に書き込んである予定の文字すら楽しそうだ。


あらすじはこんな感じ。

名門音楽大学に入学したドラマーのニーマン(マイルズ・テラー)は、伝説の鬼教師フレッチャー(J・K・シモンズ)のバンドにスカウトされる。彼に認められれば、偉大な音楽家になるという夢と野心は叶ったも同然と喜ぶニーマン。
だが、ニーマンを待っていたのは、天才を生み出すことにとりつかれ、0.1秒のテンポのズレも許さない、異常なまでの完璧さを求めるフレッチャーの狂気のレッスンだった。さらにフレッチャーは精神を鍛えるために様々な心理的ワナを仕掛けて、ニーマンを追いつめる。恋人、家族、人生さえも投げ打ち、フレッチャーの目指す極みへと這い上がろうとするニーマン。果たしてフレッチャーはニーマンを栄光へと導くのか、それとも叩きつぶすのか─?

まず前提として、精神的にも身体的にも体罰の描写が多いので そういった要素が苦手な人は観ないことをおすすめする。

監督は『ラ・ラ・ランド』や『バビロン』のデイミアン・チャゼル。『セッション』の時はまだ28歳である。
チャゼル監督の作品を観るのは上記の作品含めこれで3つ目だが「よくここまで人間を奥底を描けるな」と感心するばかりだ。

主演は『トップガン マーヴェリック』にも出演しているマイルズ・テラー。驚くことに作中の演奏はすべてマイルズ自身が弾いているという。出血も血糊ではなく本人のものだとか。狂気の沙汰としか言いようがない。

※以下、作品のネタバレを含みます。

フレッチャーの本心はどこだったのか

アンドリューと再会したバーで語ったことは どこまで本心なのだろうか。もしくはすべて嘘か、すべて本心なのだろうか。
すべて嘘だとしたら彼は生徒の実力を期待以上にしようなんて思っていない100%自己中心的な人ということになる、と思ったが、公式で“天才を生み出すことに取り憑かれている”と言っているので これはないだろう。
なにより、教え子の1人 ショーンの死に戸惑い、涙した姿は本心であったと思いたい。

ただし先述の通り、フレッチャーは“天才を生み出すことに取り憑かれている”。あの涙が本物だとしてもそれは“ショーンの死”というよりも“自らが生み出した天才の死”(=自らの努力が水の泡になったこと)に悲しんでいるのではないだろうか。目の前にいたショーンという一個人のことなど、全く視野に入っていなかったかもしれない。“ただの教え子”ショーンが死んでも、あそこまで泣き、悲しんでくれただろうか。スタジオ・バンドのメンバーにショーンの話をした後の練習がさらに狂気に満ちていたのを思うと、そうとは思えない。切り替えの早い人がいるのはわかるが、あれは早すぎやしないだろうか。

さて、すべてが嘘ではないとなると、学生を鍛えようとしていた(天才を生み出そうとしていた)のは本当で、ただ密告して自分を辞職に追い込んだアンドリューに復讐するためにバーでは優しく接していたということになる。
今思えばあれだけ厳しかったフレッチャーが急に優しく語りかけてくるのは怪しいのだが、いかんせん私は目で見た通りに受け取る質だものだから、全く疑っていなかった。

フレッチャーは“天才を生み出す自分”が大好きなのだろう。だからこそ自らを辞職に追い込んだ密告者が許せなかった。
あのタイミングで密告があったのだから、ショーン、アンドリュー、その関係者にまで絞るのは容易かっただろう。もしショーンの家族が金銭面的理由で訴えることが出来ないと知っていたとしたらアンドリュー本人か父親しかいないし、知らなかったとしてもバーで会話するうちに気づいたのかもしれない。

そしてあの、JVCのステージである。
復讐の仕方がえぐい。徹底的に心を折ろうとしている。優しく接して「慣れてるやつがいい」とまたドラマーとして表に立たせて、しかもプロ集団の中に放り込む。
ドラマーがダメなんだと言っていたのも嘘だろうか。もしくは本当に何らかの事情で出れなくなったか、クビにしたにしてもプロの中で探す時間はあったはずだろうから、あのバーでアンドリューを見つけた時は復讐のチャンスが舞い込んだと たまらなく嬉しかったことだろう。

彼の唯一の誤算は、アンドリューのドラムへの病的な執着とその才能だ。アンドリューは見事やってのけ、フレッチャーはその才能に喜びを隠しきれない表情を浮かべ、物語は幕を閉じる。
あのあと2人はどうなっていくのだろうか。再び師弟関係のようになるのか、それぞれに生きていくのか、はたまたそれ以外か。
ただ、隠し切れないほどの興奮を感じた(自らが生み出した)その才能をフレッチャーが放っておくとも思えない。

アンドリューはどこまで本気だったのか

物語序盤のアンドリューが、ドラムに対してどこまで本気だったのかがわからない。
バディ・リッチのような“偉大なジャズドラマー”に憧れているのは伝わってくるが、フレッチャーと会う前のアンドリューはどこか、骨の髄まで本気とはいえない気がする。

そんな彼を良くも悪くも変えたのがフレッチャーだ。体罰を受け罵詈雑言を浴びさせられても、アンドリューは悔しさをバネに文字通り血のにじむような努力をする。後々には恋人すらも切り捨ててしまう。
しかしこれは、“偉大なジャズドラマーになる”ためではなく、フレッチャーに認められるため(または見返してやるため)の努力であるようにも思う。

譜めくりとして参加した大会で行方不明となった楽譜は、結局どこへいってしまったのだろう。本当に清掃員が持って行ってしまったのかもしれないし、別チームが隠してしまったのかもしれないが、最初に頭に浮かんだのは“フレッチャーもしくはフレッチャーに頼まれた第三者が隠したか持ち去った”可能性である。もちろんフレッチャー自身がいれば目立ってしまうし、その後遠くから叫ぶ声が聞こえるので彼本人ということはないだろうが、もしフレッチャーがアンドリューを第2のショーンにしたくてわざとやっていたら、と思ってしまった。

コンペティション当日、バスが止まってしまったりスティックを忘れてしまったりと、不運と不注意の連続だ。間に合いますように、と願ったのもつかの間。これまた一瞬の不注意でアンドリューは交通事故を起こしてしまう。車から抜け出して会場に向かう気力は恐ろしいものだが、当然血まみれの彼がフレッチャーの望む演奏などできるはずもない。「お前は終わりだ」と言われても、やや致し方ないようにも思う。殴りかかりたくなる気持ちも、わからないことはないのだが。
コノリーが現われ、焦る気持ちはわかる。が、そもそも彼には余裕を持った状態が少ない。時間にしろ気持ちにしろ、ゆとりをもって行動していない。緊張する環境にあるとはいえ、注意や周囲への優しさが足りないのではないだろうか。それまでの行動が災いとなって返ってきたとも考えられる。

JVCのステージは、見ている側の我々までが心身ともに疲弊していく。
楽しんでいこうとしていたはずが「密告したのはお前だな」と突然谷底に突き落とされるような感覚。
まさか学生時代に練習した曲ではないとは。しかも新曲! とくれば「Whiplash」や「Caravan」と違いどこかで耳にしたこともないはずで、周りの音を聞きながらやるしかない。
演奏はボロボロ。プライドも何もかもズタズタで、舞台を去るのも無理はない。しかしここからどう物語が進むのか………と思いきや、アンドリューは舞台に戻る。さらに、フレッチャーのMCを遮って弾き始めたのは「Caravan」!!
あの瞬間は本当に痺れる。鳥肌が止まらなかった。

「お前には才能がない」と言ってきたフレッチャーに見せつけるドラム!!!  文句言いに近寄ってきたフレッチャーには1発シンバルを食らわせそのまま演奏!!!
その勢いにほかのバンドメンバーも続き、フレッチャーも指揮をせざるを得ない。途中で止まることもなく演奏が終わると、なんて気持ちよいのだろうと感じたことのない感覚に包まれた。

しかしまだ気が早かった。アンドリューのドラムは止まらない。彼が魅せるのは、なんと、あの時コノリーとタナーと3人で深夜まで戦わされた極端に早いテンポ。
これにはフレッチャーも高揚するのが見ていてわかる。アップテンポからスローテンポまで、アンドリューは指揮の通りに見事やってのける。

この時、アンドリューはきっと本気だった。
しかし、本気でドラムと向き合ったというより、本気でフレッチャーに見せつけにいった印象だ。人に聴かせるための演奏ではなく、フレッチャーただ一人に見せつけるための“本気”の演奏。
フレッチャーと出会ってからの“本気”を、フレッチャー本人に全てぶつける演奏だった。


アンドリューとフレッチャーの関係性

2人の関係性を表す、しっくりくる言葉が思い浮かばない。
家族、親戚、友達、仲間、恋人、近所の人、いずれでもない。師弟関係が近いかと思ったが、あの2人なら「No」と言いそうだし私もしっくりこない。
しかしおそらく、最後、アンドリューがアップテンポもスローテンポもドラムでやってのけた あの瞬間は、何か繋がりがあったはずだ。

アンドリューと親戚

JVCの舞台を降りたアンドリューに続き急いで席を立ち、出迎え、ハグしてくれた父親の優しさが目に染みる。
父親は音楽のことは何も分からないのだろうし、今後も積極的に知ろうとすることはないのだろう。親戚の馬鹿にした態度をみるにアンドリューの音楽好きは母親譲りかもしれない。少なくとも身近な親戚に理解者はいない。それでも父親は夢を追いかける息子を男手ひとつで育て、音楽学校にも通わせてくれている良き理解者だ。
親戚との食事の場ではいささか頼りなく見えたが、退学後に怒った姿も含め息子への愛はたしかにあるのだと感じた。

アンドリューの父親は、最後の演奏を見て何を思ったのだろう。
ある種の本気を込めた演奏を目の当たりにし、音楽に明るくない父親が何を思ったのか、観終わった今でも気になっている。
あの後、アンドリューはドラムを極める道を進むのだろうか、それともあれっきりドラムを辞めるのだろうか。いずれにしても、父親が晴れた表情を浮かべることはないのだろう。
ドラムへの執着を、あんな演奏を目の前で見てしまっては、辞めろとも続けろとも、簡単には言えないはずだ。


映画の中と撮影現場と

ラスト9分19秒、互いの持つ狂気と狂気のぶつけ合いは、映画の中だけでなく、撮影現場にも満ちていたことだろう。本当に血を滲ませた努力も、緊張感も、何もかもが本物で、そこにあって、それを、作品に携わったすべての人が感じながら撮影したからこそ、あの作品が出来上がったのだ。


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