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希望のような 呪いのような『キリエのうた』

『キリエのうた』を観た。小説も出ているが そちらはまだ読んでいないので、今回は映画の感想を書いていく。
岩井俊二監督作品は『リップヴァンウィンクルの花嫁』と『ラストレター』を観たことがある。家族からは『花とアリス』を勧められているが、まだ観れていない。

『キリエのうた』は、濃密な13年間の物語だ。

※以下、作品のネタバレを含む。


全体的な感想

救いの無い物語、というのが真っ先に浮かんだ感想だ。

世界はどこにもないよ
だけど いまここを歩くんだ
希望とか見当たらない
だけど あなたがここにいるから

キリエ・憐みの讃歌

主要人物たちは皆、歌詞にもあるように、希望も明るい未来もない日々を歩いている。どこかにいるであろう“あなた”の存在や、もういない“あなた”との記憶を、良くも悪くも思い出として。
『キリエのうた』はこの曲を体現したような作品だ。


小塚路花(こづか るか)/ Kyrie(キリエ)

由来はおそらく、ルカによる福音書の著者、ルカ。日本語表記では“路加”と書かれることもあるそうなので、漢字もここから取ったのだろう。
福音書とは、イエス・キリストの誕生、イエスが公の場に出て活動した公生涯、教え、死と復活について書いたものだ。亡くなった姉、希の名前で活動しその名を広めることに、イエス・キリストの名を広めた福音書との重なりを感じる。

路花にとって希は文字通り、神のような存在だったはずだ。

路花は、自らが窮地に追い込まれたとき泣き叫びながら姉、希の名前を呼んだ。家族なのだから自然といえなくもないが、母親ではないんだな、と印象に残っている。
希の名前はイエス・キリストが由来らしい。辛い時にその名前を叫ぶのは、まさに主よ我を救たまえと民衆が叫んだように、私を救って欲しいと 神に助けを求めることに近いように思う。

そしてまた、彼女も、姉の名前をまといストリートミュージシャン、キリエとして活動する中で崇拝される存在となっていく。
風琴は、路花が青い衣装に着替える姿を“儀式”と例えた。路花がミューズへと変わっていく儀式なのだと。
路花が、崇拝される神のような存在へと変わっていく儀式とも捉えられないだろうか。

路花をはじめに、小塚家はややズレているように思う。そのズレに特別な理由があるのか、そんなものはないのかはわからない。
ただ、真緒里が行方不明になってもいつか戻ると信じ、波田目に襲われて嫌悪感を抱いても「真緒里さんが許されるなら」と受け入れるその姿は、普通とは言い難い。

「永遠には続かないよ。そういう時間は」
根岸のこの台詞が好きだ。
路花に対して厳しくぴしゃりと言い切るこの言葉は、優しくないかもしれないが紛うことなき真実だ。楽しい時間は永遠じゃない。いつか必ず終わる。終わらなかったとしても、深い底に落ちていくように、勢いや気持ちの昂りが下がっていく瞬間は必ず来る。
だがきっと、路花はその言葉を理解していない。いつかくる“そういう時間”になってもおそらく、そうなっちゃったな、で終わる。その時その時のことしか考えられない。

真緒里が刺された後、路花はどうなるのだろうか。姉の名を叫びながら泣いたように、真緒里の名を叫びながら泣くのだろか。一生、真緒里のことを思って泣くのだろうか。それとも、時間が経てばなんてことなくなるのだろうか。
描かれていない未来が、こんなにも恐ろしいことはない。


小塚希(こづか きりえ)

キリエの由来である姉の名前は、希望の希と書いてキリエと読む。上記にも示したように、キリエとはイエス・キリストのことだ。路花の名前も含め、キリスト教を重んじる小塚家らしいといえばらしい。
ただ、ある種、呪いのようにも思う。

好きなイラストレーターさんがお子さんを産んだ後に言っていたことがずっと心に残っている。
“子どもの名前は響きを重視して名付けました。子どもの未来は自分で決めて欲しいので”

名前は、親から子どもへの最初のプレゼントであり、呪いだ。
“こんな子になってほしい”
“こんな未来を生きてほしい”
明るい未来を思って名付けられるであろうものが、その願いが、子どもにとって大きく重く、恐ろしいものにならない保証は無い。

妊娠を告げた際、母親は「2人が望むなら、赤ちゃんは神様からの贈り物だから」と微笑んだ。
簡単に堕ろせとは言わない優しい母親だろうか。それとも、産み育てる2人のことを考えず簡単にそんなことを言ってしまう、軽率な母親だろうか。
希も、まだ目立つお腹ではなかったからか、何事もないかのように学校へ通っている。
大きな地震があり津波の恐れもある中、夏彦との電話で「知り合い? 恋人って言っちゃだめ? フィアンセは? お腹の子どものことは?」と楽しそうに笑うその表情は、やはりどこかズレている。


イッコ / 一条逸子(いちじょう いつこ) / 広澤真緒里(ひろさわ まおり)

「女を武器にしてる、みたいなのが嫌なんです」
そう語った彼女は結局、女を武器に結婚詐欺師となった。飲み屋のママをしていた祖母や母親以上に女を武器にしていたと言える。
彼女は何を思ってそんなことを始めたのだろうか。

彼女はキリエのマネージャーを買って出るが、ある日突然姿を消す。戻ってくるのも突然で「泊めてもらおうと思ったのに」と平然と言う。路花が涙田目からどんな目に遭ったのか、路花は言わないだろうし、きっと真緒里も聞かない。彼女は一生、そのことについては知らないままだろう。

大学進学の道を断たれた瞬間から、彼女は人に期待することを辞めたのかもしれない。
良くも悪くも赴くままに生きる人生。人を巻き込んでいく人生。巻き込んだ相手がどうなろうと知らない(もしくは知らないふりをする)人生。
たしかに、それは楽だろう。しかしそうは問屋が卸さないもので、真緒里は刺される。「どうってことない」と立ち上がった彼女の横顔が状況に反して美しく、目に焼き付いている。あの花束は、届けられたのだろうか。


潮見夏彦(しおみ なつひこ)

ある日、バレンタインにチョコをくれた可愛い後輩がわざわざ会いに来た。手を繋いでもいいかと聞いた。キスをしてきた。
悪い気はしなかっただろう。はっきりいえば彼はそこから調子に乗った。
避妊をきちんとしていたのか、していなかったのかはわからない。
しかし妊娠に動揺したのはたしかだ。受験もあるというのに、軽率と言える。

ただし哀れに思うのは、小塚家に尋ねた時のことだ。
家族はもちろん、親戚か、同じ教会に通う人たちか、とにかく小塚家と親しいものたちにも希の彼氏として紹介される。もしかしたら妊娠のことも知られていたのかもしれない。母親も子どもを諦めろとは言わない。良すぎるほどのテンポで歓迎されていく気持ち悪さが、夏彦に重くのしかかっていったことだろう。

地震後、津波の恐れがあるにもかかわらず病院の受付で話す関係性について楽しそうに話すキリエと「(子どものこと)言ってもいいよ。いや、やっぱ俺から言いたいからちょっとまって」と落ち着かない夏彦。彼に関しては地震のことと妊娠のことと、非日常が何重にも重なっていて整理がつかなかったのも落ち着きのなさの原因と言えるだろう。

希そっくりに育った路花をみて夏彦は泣き崩れ、何度もごめんと謝る。希へ伝えたかった、伝えるべきだった言葉を何度も、何度も零す。
なぜ謝ったのだろうと考えた時、真っ先に浮かんだのは希への愛が無かったことへの謝罪なのではないか、ということだった。

おそらく夏彦は、希から夏彦への気持ちほど希のことを愛してはいない。なんとなく、可愛いから付き合って、セックスをして、深く考えないまま妊娠させてしまった。家族にも紹介され、当然のように結婚する流れになってしまって、自分で自分に 彼女を愛しているんだと思い込ませていたのではないだろうか。「揺れてる?」と言われ、気持ちの揺れを言われていると勘違いするほどだ。この時夏彦は「揺れてないよ」「もう決めた」と言ったが、それが心からの言葉だったかはわからない。

まだ高校生だった路花が心配し夏彦の家へ入り浸っていたのは、おそらく夏彦のギリギリのところに立っている状態を、本能的に感じていたからではないだろうか。
フィアンセと聞いていた彼が、自分にとっても大切な存在である希を亡くしたので心配したのだろう。また、路花自身も、姉のことを知っている夏彦に依存していたのかもしれない。


寺石風美(てらいし ふみ)

彼女は何かしらの熱意をもって教員になったのだろうな、と思う。
憧れる恩師がいるのか、逆に嫌な教員ばかりに当たってきたからこそ自分は良い教員になると意気込んでいるのか。答えはわからないが、強い正義感に溢れた人だ。しかし、それ故に行き過ぎたことをしている。

イワンと呼ばれる少女の存在を知り心配するのはわかるが、少女を勝手に連れて帰るのは、はっきり言ってしまえば誘拐だ。
“私がどうにかしてあげなければ”と思ったのだとしても、すぐに警察や福祉の力を頼るべきであったと思う。当然血縁関係も何も無いのだから、行きつく先は同じだっただろうが、優しさだけではどうにもできない世界なのは事実だ。
もしあの後、寺石が誘拐犯として逮捕されてしまっていたら、路花はどう感じただろう。何も感じないかもしれないが、どこか、心に傷を残してしまっていたかもしれない。


御手洗礼(みたらい  れい)

彼と小学生の路花が歌う、音痴の聖歌が好きだ。

彼は路花に、歌う楽しさを教えた人であると思う。
キリスト教一家生まれである路花はもとから讃美歌を歌う機会は多かっただろうし、夏彦が紹介された日にも「異邦人」を歌っていたので家族でカラオケのように歌うことはあっただろう。
ただ、歌うことの楽しさやそれによって救われる気持ちの存在を教えたのは、御手洗礼ではないだろうか。

2人で歌ったあと、御手洗は職務質問を受けるが上手く答えられず、結果警察に取り押さえられる。
路花はその隙に逃げているのだが、御手洗は路花が逃げられるよう上手くやってくれたのだろうか。それとも そんなことなど考えておらず、偶然だったのだろうか。


また違う印象になるかもしれない

既に小説を読んだ友人によると、小説には、映画には出てこなかった人物や生々しい描写などが載っているという。
映像で受ける印象と文字で受ける印象はまた異なる。両方に触れることで新たに見えてくることもあるかもしれない。



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