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“愛”とは何か “自由”とは何か『大いなる自由』

昨年の夏、オーストリア・ドイツ映画『大いなる自由』を観た。
Twitterで偶然見かけた「ぜひみてほしい」というツイートをたまたま覚えていて、近くでやっているし、せっかくならと、ほぼ下調べなしで観に行った。

あらすじはこんな感じ。

第二次世界大戦後のドイツ、男性同性愛を禁じた刑法175条の下、ハンスは自身の性的指向を理由に繰り返し投獄される。同房の服役囚ヴィクトールは「175条違反者」である彼を嫌悪し遠ざけようとするが、腕に彫られた番号から、ハンスがナチスの強制収容所から直接刑務所に送られたことを知る。己を曲げず何度も懲罰房に入れられる「頑固者」ハンスと、長期の服役によって刑務所内での振る舞いを熟知しているヴィクトール。反発から始まった二人の関係は、長い年月を経て互いを尊重する絆へと変わっていく 。あまりに不条理な迫害の歴史の中で、愛と自由の本質を見つめた、静かな衝撃作。

映画『大いなる自由』公式サイト 7月7日公開 (greatfreedom.jp)

キーワードとなる刑法175条については以下の通り。

ドイツ刑法175条(1871~1994)
1871年に制定された男性同性愛※を禁じる刑法。ナチ期に厳罰化され、戦後東西ドイツでそのまま引き継がれた。西ドイツでは1969年に21歳以上の男性同性愛は非犯罪化され、1994年にようやく撤廃された。約120年間に14万もの人が処罰されたといわれる。

※刑法175条は男性のみを対象としており、女性同性愛はその存在さえ否定されたことから違法と明記されていなかった。

映画『大いなる自由』公式サイト 7月7日公開 (greatfreedom.jp)

完全に撤廃されたのは、たったの30年前のこと。
そのことを心に留めて、この作品を観てほしい。

※以下、本編のネタバレを含む。


全体的な感想

出会えてよかった。
観終わった直後、そう思った。

もう一度観たいと強く願ったものの私が観に行ったのはその劇場での上映最終日。ほかの最寄りの劇場ではやっていなかったので、円盤化か、配信を待つばかりである。

公式サイトに書かれている“名付けようもないふたりの関係”が、私が物語に大きく引き込まれた理由の1つだと思う。
もともと、その人たちの間にだけある特別な関係性というものが好きだ。恋愛とも友愛とも少し違うような、似ているような。言葉にしようとすると苦しくなったり、嬉しくなったり、くすぐったくなったり。ハンスとヴィクトールの関係性は、まさにそういったものだった。

マッチと懲罰房

作品内で何度も懲罰房が出てくる。
懲罰房内はドアや小窓が明けられない限り全く光が入らない完全な暗闇だ。
映画において暗闇というものは、登場人物たちにとっては完全な暗闇だが作品を見ている我々にはうっすら表情などが見える程度の暗さであることが多いように思う。しかしこの作品では、見ている側も完全な暗闇を味わうことになる。

だからこそ、マッチの灯りの美しさが際立つ。ハンスが懲罰房に入れられた際、ヴィクトールから煙草とマッチが差し入れられるシーンが何度かある。その灯りは、懲罰房に入れられているという状況に反してとても美しい。何か感じるものがあるのか、持ち手が燃え尽きるギリギリまで灯りを見つめるハンスの表情からは目が離せない。

そこには、2人にしか感じられない何かがある。“愛”の一言で表せないこともないだろう。ただ、それが彼らの関係性を完全に言い表せているのかと聞かれたら、答えはノーだ。
やはり彼らの関係性は“名付けようもない”のだ。

ハンス

ハンスはまさに“愛に生きる男”だ。
175条違反者として後ろ指を指されようと、「変態」と罵られようと、何度逮捕されようと、同性を愛する自分を隠すことなく生きている。
その頑固で真っ直ぐな姿は、誰の目にも眩しかったことだろう。

オスカー

その1人が、1957年、ハンスと共に投獄された恋人のオスカーだ。
作中流れる、逮捕される前の2人を映したビデオは異性愛者のカップルや夫婦の撮る思い出のビデオと何ら変わりなく、幸せそうな2人を映している。その思い出もあるからこそ前向きに未来の話をするハンスと、その思い出があっても未来のことなど考えられないオスカーが対極的だ。

どうにかしてでも聖書に込めたメッセージを伝えようとしたハンスに対し、オスカーは返事を届けることがないまま自殺してしまう。届けたい気持ちが全くなかったわけではないだろう。ただ彼自身が語るように、届ける方法がわからなかった。どんな手を使ってでも届けて見せるという、生きる気力とも言えるものが、この時点でオスカーにはもうなかったのかもしれない。
少し考えれば何かしらの策は思いついたのかもしれない。ただ、1度「もうだめだ」と思ってしまったことを前向きに考え直すのは容易なことではない。オスカーは周囲に175条違反者として見られることへの恐怖と、ハンスへの愛に板挟みになりながら、屋上から飛び降りたのだろうか。

レオ

1968年。ハンスと同時期、ないし同時に投獄された青年レオは、ハンスと交流を深めていく。
話をしたり、映画を見る際に隣に座って楽しそうに笑い合ったり。おそらく、互いに思い合っていた。

しかしレオは、警察に捕まった際ハンスに性行為を強制されたと発言したことを告白する。ハンスはそれに対し、責めも怒りもしなかった。
オスカーのことやヴィクトールの言葉があったのはもちろん、レオの話も覚えていたのだろう。
レオは教師だったが、175条違反者として1度捕まった以上、教師としてまた働くのは難しいだろうと語っていた。そんな彼の未来を思って、ハンスはありもしない自分の罪を認めたのだ。
レオはどんな気持ちで釈放され、そしてその後の人生を送ったのだろう。心のどこかにはハンスがいて、時折思い出していたら良いのに、と思う。

ヴィクトール

ヴィクトールは本当にホモフォビアなのだろうか。
175条違反者であるハンスを嫌っていたが、その後彼の境遇を知ると番号を隠すように刺青を彫ってくれた。映画冒頭、1968年に再会した2人の会話など、本当に古くからの友人同士のようだ。20年以上かけて彼らは友好的な関係を築いてきた。

思うに、彼はいわゆる食わず嫌いなのではないだろうか。
自分が異性愛者だから、男性同士の同性愛者は違法だから、自分と異なる性的指向の人間が怖かっただけではないだろうか。
性別問わず、性的嫌がらせで相手に嫌な思いをさせる人はいる。ヴィクトールはそういった人間と175条違反者をいっしょくたにしていただけではないだろうか。

ヴィクトールは繊細で心優しい人なのだと思う。
オスカーを失い取り乱すハンスを抱きしめてくれたのも、懲罰房に引きずられながら職員を「ひとでなし」と叫んでくれたのも、彼だけだ。
ここで、物語終盤に明かされたヴィクトールの罪状を思い出す。彼は人を2人殺して刑務所に入ったという。「戦時中は誰も殺さなかった」にもかかわらず、戻ってきてから殺してしまった。
なぜ殺してしまったのか、誰を殺してしまったのかはわからないが、私は彼の家族や友人なのではないかと思っている。身近な存在を自らの手で殺してしまった事実を、平然として見える態度の裏側では、震えながら抱えていたのかもしれない。
大切な人を殺してしまった、亡くしてしまった気持ちがわかるからこそ、強く抱き締め、ハンスのために叫んでくれたのかもしれない。
(しかし、その殺してしまった2人がゲイであった可能性も考えられる。もしそうなのであれば、ホモフォビア的な彼の態度は、自身の行いを正当化するための、1種の防衛本能的なものだったかもしれない。)

物語後半、仮釈放が認められそうだったヴィクトールは、聴聞会直前に落ち着かない様子でトイレに立ち、ドラッグを打ってしまう。
その姿は、『ショーシャンクの空に』に出てくる図書係の老人を思い出させた。
老人は仮釈放が認められるも50年服役していたことから塀の外での生活に不安を感じて取り乱す。最終的に仮釈放を受け入れるものの、やはり外での生活には馴染めず自殺する。

ヴィクトールが何年服役しているのかはっきりとはわからないが、1945年より前からいるのであれば最低でも23年以上いることになる。『ショーシャンクの空に』の老人ほどの長さではないが、外での生活に不安を覚えるには十分すぎる月日だろう。

ドラッグ中毒となっていた彼を支えたのがハンスだ。彼らは再び同室となり、寝食を共にしていく。

心身ともに落ち着いてきた中で飛び込んできたのが「刑法175条改正」の知らせだ。
これまで何年もの間、後ろ指を刺され罪人として扱われてきた自分が、罪人ではなくなる。
素直に喜べる人がいたのだろうか、と考えた。
これまで裁かれてきた人や、死んでいったオスカーのことを思うと、とてもじゃないが喜べない。突然そんなことを言われても、と言う気持ちがハンスの表情からありありと伝わってきた。
また、それはヴィクトールとの別れも示している。共に過ごし、言葉では言い表せない関係性を築いてきた彼との、永遠かもしれない別れだ。
ハンスもヴィクトールも、互いを失うことへの不安を抱えたまま、釈放の日を迎えてしまう。


“愛”とは。“自由”とは

釈放されたハンスが訪れたバーの名前は“大いなる自由”。自由などなかったハンスの人生を踏まえると、皮肉とも受け取れる。
そこはゲイバーに近いものなのだろう。男性同士が出会いを求め、楽し気に語らう。地下にはハッテン場があり、思うがままに性行為をしている。

しかしハンスは誰とも何もせずそのバーを出て、ヴィクトールから差し入れられていたのと同じ煙草を買い、その脚で適当なショーウィンドウを壊し、ポケットに盗んだものを入れる。しかしそれは形だけの強盗で、ハンスはそこから逃げることなく、慌てることもない。その場に座り込み、静かに煙草を吸いながら警察の到着を待つ。

彼は刑務所に戻る選択をした。
ハンスの求めていた自由はそこにはなかったのだ。

ハンスは“愛に生きる男”だ。それは同性愛者であることが法律上許されているかどうかには関係なく、いつだって、誰かを愛し、誰かに愛されることを望んで生きてきた。
法によって認められた自由は、彼の望むものではなかった。

“この手に自由を。消せない愛を”

この言葉が、私の中でじわりじわりと広がり、そしてくすぶり続けている。


パンフレット

スクリーンを出てすぐ、私はパンフレットを購入した。パンフレットはミシン綴じされている。最近のパンフレットにしては珍しいのではないだろうか。最初はただ「そういうデザインなんだな」としか思っていなかったのだが、あとから「ハンスが刑務所内で縫製担当だったからではないか」というツイートを見て頭を抱えた。なんてことを…!!

劇場によってはマッチを配布したところもあるそうだ。見るたびに作品や登場人物たちを思い出し、切ないような、苦しいような、複雑な気持ちを思い出させるのではないだろうか。


ぜひ観てほしい

そう思うものの、2024年1月現在、この作品を映画館で観ることはほぼ不可能だろう。私がこの作品を観たのは2023年8月下旬のことだ。好きが故に筆が重くなってしまうことはこれまでもあったが、気づけば半年近く経ってしまっていた。拙い文章をここまで読んでくれた方々には感謝しかない。

この先、円盤が発売されたり配信が始まったりした際には、ぜひ、本当に、心の底から、この作品を観てくれることを願う。

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