見出し画像

子供扱いされたり小馬鹿にされたりするのは日常茶飯事

 オーストラリアに二年以上住んでいたので、日常生活におけるコミュニケーションにはそれほど苦労しない程度に英語を喋れる。だが謙遜でもなんでもなく完璧には程遠い。たまに日本で英語を喋る機会があると「ペラペラじゃないですか」と周囲に驚かれたりするが、ちょっと海外経験のある人が僕の英語を聴けば「この程度か」と感じるだろう。
 DIYで自室の壁紙を張り替えて以降、どこかへ外出する度にありとあらゆる場所の壁紙の継ぎ目が気になるようになったのだけど、ほんのちょっとの経験があるだけで見える景色は存外に大きく変わるものだ。元サッカー選手のベッカムの英語にあんな可愛らしい独特のアクセントがあったなんて最近まで知らなかった。

 特定の言語を流暢に使いこなすというのは生半可なことではない。ニューヨーク出身の宇多田ヒカルでさえ、ネイティブの英語話者と喋っていると自分の特異さを感じると過去のインタビューで語っている。彼女は幼少時に日米を行き来していたゆえに、言語の背景にある文化を生粋のアメリカ人と同じレベルでは体験してきていないからだというのが理由の一つだった。
 文脈にもよるが、日本語で「たけし」と言えば大抵の人はビートたけしを連想する。世代や個人の単位でそういった共通認識は異なるということは前提にしても、もし全くピンとこなかったら「そんなのも知らないの?」と冗談っぽく揶揄されるかもしれない。母語ではない言語で会話していると、この手の「歪み」のようなものがかなり増える。それが日常的に続くとダンカンバカヤローと首を傾げたくもなる。

 オーストラリアに住んでいた時、コロナが流行り始めたタイミングで「中国人か?」とたまに訊かれたし、ちょっと不自然な形で仕事を一日でクビにされたこともあった。特に人種差別を受けたとも感じなかったが、心躍る経験ではなかった。
 英語が流暢ではないということで子供扱いされたり小馬鹿にされたりするのは日常茶飯事だった。フランクに言えば「なめられる」のである。明らかに僕のせいではないミスに対し「あいつは英語があんまりだから何か勘違いしてたんだろ」と責任転嫁されたりするのだ。最も苛立たしいのは、実際に勘違いしている時もあるのでこちらからは強く出られないという点だ。これは十代の頃に感じていたストレスに近かった。大人から理不尽な目に遭わされた時、自分にはそれを周囲に伝えたり環境を変えるだけの能力や社会的信用がないのである。ダンカンを罵る程度ではこの負の感情は成仏されないので、noteに記事を書かざるを得なくなる。

 余談だがここ一二ヶ月くらいの間に書いてきたnoteの記事を読み返すと、ストレスが溜まっているのが読み取れる。他人を腐すような表現やネガティブなテーマが多いし、傲慢・独りよがりな箇所も散見され、あとは単純に構成や内容などの文章としてのクオリティも低い。ちょっと景色を変える必要があるかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?