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非難されうるような危うい行動をした自覚が微塵もなかった

 ここ数年でほとんどニュースを見なくなった。テレビや新聞はおろか、SNSやネットニュースなんかも極力避けるようにしている。Yahooはトップ画面ではなくメールボックスをブックマークしているし、LINEは設定でニュースをメニューから消して着信履歴にしてある。因習的に情報を惰性で受け取り続けていると無自覚のうちに疲れるし、単純に年齢を重ねるにつれて世間にあまり関心がなくなったのだ。今は昔よりも自分のことを中心に考えている。
 おそらく誰もが「他人にどう思われるかばかり気にせずに自分の意思を通す」というような何番煎じかも分からないような説教を、分け知り顔の大人達から幾度となく受けてきただろう。そんなことは大抵の人が理解している。だが、当然ながらそれを実行するのは容易ではない。下手をすればただの迷惑になってしまうのがオチで、僕のiTunesにはU2の聴いたことのないアルバムが未だに残っている。同調圧力が常軌を逸している日本では尚更だ。自分よりも他人を思いやるのは結構なことだが、それを半ば強要するような雰囲気はちょっと異常である。ボランティアをする人間が褒められるのは分かるが、しない人間を責めることは誰にもできない筈だ。

 大学生の時、とある講義で最後にプリントの課題があった。僕がそれを仕上げて提出先の机に向かった際、すでに提出されているプリントがやや乱雑に散らばっており、一人の女の子がそれを集めて整理しようとしていた。「うわあバラバラ」「大変だな」と彼女はずっと呟いていた。周囲で数人がそれに気を遣ってプリントを持ったまま突っ立っていたので、僕は自分のプリントを机の端に置いて教室を出た。数十秒くらい歩いた後でさっきの呟き声が背後でずっと続いているのに気がついた。その女の子が僕の後ろについて「信じられない」「何考えてるの」と呪ってきていたのである。一瞬、状況が理解できなかった。背後で声が続いていることをまず認識し、どうやら僕を悪く言っているらしいと時間差で分かったのだが、それが何に対するものなのかが謎だった。歩き続けながら軽く振り返ると、その女の子が友達らしき別の女の子と二人で歩きながらこっちを睨んでいた。「ああ、さっきの行動に対して言っているのか」とそこでようやく分かった。今振り返ると自分も大人気なかったと感じられるが、その時はかなり純粋に困惑した。非難されうるような危うい行動をした自覚が微塵もなかったからだ。

 前言を撤回するようだが、あまりにも浮世離れしないように特定のソースから情報は得ている。国内の時事ネタは日経電子版、欧米のニュースは英語の勉強も兼ねてBBCとCNNのYouTubeチャンネル、それからアジア圏に関してはVICEのドキュメンタリーなんかをチェックする。一応、世界で起こっている重大な出来事は把握しているつもりである。ちょっと前に知人から「ゆうこりんがまた離婚だってよ」と話を振られた時には、どう答えて良いのか分からなかったけれど。

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