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かまぼこの形の舟になれるならみるべきものはへんな夢だよ/谷川由里子

かまぼこの形の舟になれるならみるべきものはへんな夢だよ

谷川由里子『サワーマッシュ』より

「かまぼこの形の舟」を実際に見たことはないけれど、板の上に乗っている紅白のかまぼこは、たしかに舟のような形をしている。本当に存在するのかもしれないなどと思いつつ、でもこの際、そんな形の舟が本当にあるのかどうかはどちらでもよい。これは「かまぼこの形の舟になれるなら」という仮定の話だからだ。仮定の話なら、存在するものにもしないものにも、何にだってなれる。

何にだってなれるにしても、かまぼこの形の舟になるというのは劇的な変身だ。突飛な発想に感じられるが、この上の句は「かまぼこ」という変身の先輩に支えられてバランスを保っているように思う。魚として海を泳いでいた生き物がすり身にされて、角がつるんと丸くなった横長の直方体に成型されて、かまぼこになる。

あんな形のものが舟として海に浮かんでいたら、そしてそれに自分がなれたらいいだろうなあと、主体はふと考えるのだろう。「かまぼこの形の舟になれるなら」と思う時点で、すでに「へんな夢」をみているような気もするが、たぶんそういうことではない。考えなければならないことがいろいろある主体は、つるっとしていて、ぬぼっとしていて、何も考えていなさそうな「かまぼこの形の舟」に憧れる。余裕なく現実を生きている状態でみられる「へんな夢」には限りがある。「かまぼこの形の舟」になったあとにこそ、「みるべきものはへんな夢」なのだ。たくさんみられるし、ずっとみてもいい。変身後の姿でみる夢はどれだけ「へん」だろう。

漢字に変換できる「みる(見る)」や「へんな(変な)」がひらがなであることで、「舟」と「夢」は際立つ。隔たりがなくなり、「舟」はスムーズに「夢」にたどり着く。空っぽの「かまぼこの形の舟」はゆったりと移動しながら、あるいは漂いながら、飄々と「へんな夢」をみるのだろう。

ところで、この歌を読んで思い出した曲がある。青谷明日香の『異端児の城』だ。

かまぼこ板にしか興味がない人の物語を歌った曲です。この曲に登場するのはかまぼこ板であって、かまぼこではないのだが、この曲を聴いてからというもの、「かまぼこ」はわたしの中でどうしても、異端であること、自由であることと結びついてしまう。

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