「根性論」とは結局なんなのか

現代において、多くの場面で忌避される世界の捉え方として知られる「根性論」。具体的には「努力は必ず報われる」「辛くても耐えれば良い結果がもたらされる」といった言論の背景にあるような思想・思考体系であるが、結局の所、こいつは何なんだろうか。

なんで今さらこれを考えるのか?

わたし自身が無条件・無理由に「根性論」を否定していて、
果たしてそれは合理的な否定であろうか、と思ったから。
確かに心理的な嫌悪感や不条理感を持つことが多いが、それを抜きに根性論否定できるのか、ということを思った。
なので、この記事では可能な限りわたし個人の都合ではない形で根性論を否定したい。
はたしてわたしは、わたしが相容れないという理由以外に「根性論」を否定できるのか?

教えて!Weblio先生!!

まずは一旦「根性論」の上位レイヤ「精神論」も含めて辞書的な意味を調べてみる。
Weblio辞書によると、大まかな意味合いはこうらしい。

関連する項目には「精神主義」という単語がある。

よく読めば哲学的な考察の立場としての意味合いもあるようなので、参考程度に捉えるほうが良さそう。
我らが知的好奇心を簡単に満たしてくれるモンスター、Wikipedia先生には「根性論」という項目がある。

主に日本における起源だが、言葉や思考体系として認められるようになったのは高度経済成長時代からのようである(要出典)。
戦前・戦時からそのような思想の元での統制があったとかないとかいう話はあるが、そこまで踏み込むことは一旦やめておこう。
結局の所根性論は
「世の中の問題を解決するためには『苦難に屈しない精神』があれば十分である」
という思考体系として「根性論」は位置づけられている、と解釈している。

「根性論」をあえて「肯定」してみる

この記事は「個人的に受け入れられないから」ということを抜きに「根性論」の否定を試みることが目的だ。
一度遠回りもしてみて良さそうだ。根性論を肯定することから考えよう。
第一に、わたしが感情的に嫌悪感を持つところがどこなのかを探す。
わたしは「根性論は無根拠だ」と思っている。なぜ?というか何に対して「無根拠」なのか?
上の思考体系の意味付けに従えば「問題解決」に対して無根拠である。
わたしは「根性論は古い」と思っている。なぜ?どこが古いのか?
実際、このあたりの論考をググっても、納得のいく答えを見つけるのは難しい。
「根性論 古い」でググると、「方法論の変化」と「文化の変化」とに分かれるようだ。

ここで重要なことは「科学」の対義語は「根性」ではないことと、
弱者目線に対する根拠が希薄であることである。
つまるところ、これに納得するかどうかはわたしのさじ加減となってしまう。
とはいえ「時を経て社会や価値観が変容したことで『根性』を根拠にする思考体系は『古く』なった」という言明は共通しうるか。
結局、何が変わったのか。
「方法論の変化」を考える。上の記事では柔道を例に挙げ「明確な効果がないにもかかわらず、指導者の好みや持論、思い込みによって、選手に強要されていた指導法」と「科学的な知見に基づくトレーニング」が対比されている。これの違いとは、上記記事に限れば「明確な効果に結びつくかどうか」と言えるかもしれない。
結局、わたしが根性論を肯定するには、「問題解決」に対して「苦難に屈しない精神」が「明確な効果を持つ」ことを事実として受け入れる必要がある、と言えるだろう。
それを受け入れられる証拠を探しに行く。

根性論で解決できる問題

何らかの問題に直面し、それを解決しようとする必要がある場合を考える。
では、「根性」で解決できる問題領域はどこか。
「根性で解決できる問題」でググったが、一覧が出てくるわけではなかった。これは自分の頭で考える必要がありそうだ。
根性とはある方向性をもった「精神」である。まず、精神が作用し「得ない」領域を考える。
精神では本を浮かべられない。
精神で株価は変わらない。
精神でウィルスは死滅しない。
精神で予測モデルの精度は向上しない。
危うい論理だが、精神でわたしの外が変容する場面は現状実現できていないと言える。こうして精神が作用し得ない領域を削っていく。
では、精神で「わたしの感情」や「わたしの行動」を変えうるだろうか。
変わらないと言うには、上記にあげる形で否定しきれない。
仮に変わりうる余地があるとすれば、精神が作用しうるのはあくまで「自身の心理・精神とそれに基づく行動」となろう。

「自身の心理・精神とそれに基づく行動」における問題

たとえば今わたしが抱える問題は以下である。
・明日仕事をしたくないと思っている
・将来が不透明で、これから自分が起こすべき行動がわからない。
これに対して、「根性」を解決手段に用いる。
1つ目に対しては「そのように思わなくなる」ことが「解決」を意味するだろう。わたしの「根性」をどのように作用させれば良いだろう。

……
………
よくわからない。これはわたしが「根性」がないからなのか「根性」の適切な適用法がわからないからなのか、それとも本当に「根性」はこれらを解決し得ないのかを区別できない。
ただ「根性」をこれらの問題に作用させる方法がわからないということはわかった。

結論: 使い方がわからないので肯定も否定もできない

結局わたしは「根性論」が適用できる問題領域を定義できなかった。
結果として、肯定も否定もできないという半端な結果に終わった。
わたし個人の成果として「根性の使い方がわからない」というのは大きな成果であった。
「根性はすべての問題を解決できるものではない」というところについては議論があろうし、根性の使い方さえ分かれば、上記の問題を解決できて、根性論を肯定しうるかもしれない。
次回はもっと明確に「根性」について考えてもいいかもしれない。

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