只、

どこかの誰かは、電車にはねられても死ななかったからと、自分がいつ死ぬか本当にわからなくなったらしい。


死。

それは、生き物の終わり。
__或いは、始まり。
それは、誰にでも訪れる運命であって。
人間は基本的に、それに抗う。
無駄だとわかっていても、抗うことを良しとする。

死。

それは、救済。
__或いは、贖罪。
それは、常世を彷徨える子羊にとって。
ただ1つ明確に定められたゴールだ。
この世のしがらみから解放される術なのだ。


「ね、写真撮ろうよ。」

私の、死生観というには曖昧すぎるそれは、それらしいだけだ。
いつ死ぬかなんて分からないから、遠い未来のことにして、やれることをやろう、みたいな。
この世で生きてく上で必要なのは、自分の生を証明する何らかの功績または痕跡で、それ以外は別に、死ぬまでの準備でもいいんじゃないか、とか。

彼の人が長い旅に出た日を思うと、そんなことばっかり考えてしまって。

誰かの生まれた日に、誰かが死んだ日に、漠然と死への恐怖を思想で希釈している。


100万。

年間の死者数が100万というのは、現在2024年の日本という国においては少ない数字だ。

単純に切り捨てて計算して、3000人/日。
125人/時。
2人/分。

何も考えずに計算すれば、この今日という日に私が、貴方が死ぬ確率は、0.002%。

しかし、人の死にはより複雑な因果関係があるのが普通であって。
そう簡単に確率で出せるものではない。


生命。

私たちに与えられた普遍的な奇跡は、いささか複雑であって。
人間同士の関係や社会の仕組みと比べて、やや単純に思えた。

例えば、1/2の失血。
致死性の毒物。
交通事故。

人の交わり。
毎日の食事。
三大欲求。

きっと、突き詰めれば。
人間が作ったものより複雑であろうそれ。


「うん、いいじゃん。」

生は、尽きるもの。
死は、訪れるもの。
そう決めつけるなら、いつだって意思は存在しない。
私の人生、なんて、ふざけた言葉になってしまう。

もちろん、人によってはそれでいいのだけれど。
自然に身を任せて、死ぬ時に死ぬ。
いくつまでに死ぬ。
今死にたい。
とか、人それぞれ。


私は、いつ死ぬかなんて分からないから考えなかった。
死というのは常に隣り合わせで。
影の中にいて。
まったく、意識されない。
私にとって、死なんてそういうもので。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
どちらかといえば、死んで生まれ変わるより、もう一度この人生をやり直したかった。


「…」

それを今。

たった今。

影の中を覗いている。
強く意識してしまっている。
そういう自分がこうも講釈を垂れているのをみるのも腹立たしい。


何も考えずに生きられたら。

馬鹿なお前のままなら。

幸せだったかもしれない、と。

まだ1桁の歳の私に言えばましになっただろうか。

光に包まれて生死も考えずいられただろうか。


無理か。

それがいいとも限らないか。


「これ、仏壇にあげる用ね。」

先立つ不幸。
残されるものの気持ち。
そういうのを考えれば生きられるだろうか。


苦しくなるだけだろうな。


無知は罪だと誰かが言った。
それは赦される罪だろうか。
赦されなくてもその方が幸せだったろうか。

たとえ、地獄に落ちても。


彼の人は仏教のとある宗派の葬儀で新たな道に進んだ。
長い旅に出たのだ。
旅を無事に続けるためにお供えをしたり、お参りをする。

…死んだわけじゃない。
まだ私が覚えているから。


__でも、そうだな。

私を覚えてくれている人はいくらいるだろうか。
私がいなくなったら彼の人もいなくなってしまうのかもしれない。


死ぬ準備って、こういうことなのかもしれない。


買ったお菓子を頬張った。
黄泉竈食にはならなかった。


それだけだった。

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