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わたしは時に通訳者。耳からの情報を不器用に代弁する。

耳は聞こえないけど喋れる。

そんな父方の伯母との暮らしも、もう三十年になった。

私は耳が聞こえるからこそ、聞こえる側のことを翻訳する。それは私の日常。

伝えるべきことを、素早く理解して、
それと、ほぼ同時に、
すぐ理解できる言葉に変換していく。

ノートに書いていく、
ジェスチャーしていく。

口を大げさに大きく開けて喋る。
身振り手振りを必ずする。
目を見て話す。
スマホのメモ機能で話す。

それが伯母に伝わる方法。
それしかない。

手話は、あまり覚えなかったらしい。
だから私も簡単なものしかできない。

私が小学生のときは、数回手話サークルにも通った記憶はあるものの数えるくらいしか、私も覚えていない。

指文字は、遊び感覚で覚えたので
かろうじて今も出来る範囲に入っている。



この伯母への通訳作業は、
伝わるまで何度も何度も、何度も行う。

かなりの労力だ。

だから、お店でも病院でも、
どこでも、必ず私は一言お願いする。

もう少し、ゆっくりお願いします。
ノートテイクや通訳するので。

プロでもない私が伯母のための通訳を
するために心掛けているのは、
いかに早く的確に伝わる言葉を選ぶか。

そのためには私も冷静にならなければならない。



伯母は、70歳を超えても、なお、
ガラケーでメールをしている。

見た目には気を遣っていて、おしゃれだ。


聞こえないということは、
見えてる世界が全てだから伝わりきれないことも、圧倒的に多い。

ニュースやドラマを見る時も、
スーパーでの買い物も、
病院での呼び出しや診察中も、

圧倒的に目で見える情報が少ない。

病院では、何故だろう。
ありきたりな問診票の内容への、
ツッコミも全て口頭になるから
こっちが翻訳する。

ありきたりで決められてる診察手順も
すべて口で伝えていく。
ぜんぜん伝わらないよ。

わたしは父方の伯母を通して、
それらを実感する。 

このコロナ禍のご時世、
マスクを外すことは遠慮しなきゃいけない。

でも、わたしは今日もまた、
耳が聞こえない伯母のためにマスクを外し
翻訳していく。

手話だって言語なんだ。
ジェスチャーだって言語なんだ。
ノートテイクだって言語なんだ。