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狐 ※性描写あり

昼間燦々と輝いていた向日葵たちも頭を垂れる夜。
男は日中彼女たちがどんなに朗らかに綻ぶかを知らなかった。
夜は死の世界だ。
草花は恥ずかしげに顔を背け、虫達が蠢きだす。
晩夏の庭園には桔梗やキバナコスモスなど季節の花々が植わっているが、深い闇の中ではすべてが藍色に染まり息を潜めて眠っている。
夜ならば、男は堂々と月光に当たり夜風を浴びることができた。
闇夜がこの世のありとあらゆる毒を飲み欲し、隠してくれる。
夜だけが世界の全てだった。
男はある屋敷の使用人をしている。
空襲から逃れた歴史ある大仰な門構え、伯爵がこだわり抜いた和と洋の混合するモダンな屋敷だ。
使用人でありながら、男はその立派な屋敷のある部屋に入ることを許されていた。
扉の前で立ち止まり、部屋の主の言いつけ通り狐の面を被る。
手をかけると、扉は少し押すだけでキィと間抜けな音を立てて開いた。
男は履いてきた草履を帯に押し込み裸足になった。
足の裏からひんやりとした板敷きの床の感触が伝わってくる。
男の息遣いだけが静かな部屋に響き渡った。
部屋中に漂う甘い香りに噎せ返る。
喉が渇いていた。
渇いて渇いて仕方がない。
ごくり。
闇夜が毒を飲み込んだ。


千夜子という女が小さな製糸工場で働いていた。
気立てのよかった千夜子は取引先である呉服屋の男に見初められるが、男は妻子持ちだった。
それでも構わないと千夜子は愛人の身でありながら子を孕んだ。
産まれた子は「正蔵」と名付けられた。
しかし正蔵が産まれると男は「赤子の鳴き声が五月蠅い」と姿を見せなくなってしまった。
心を病んだ千夜子はまだ赤子である正蔵に暴力を振るうようになり、あるとき泣き喚く我が子に熱湯をかけ大火傷を負わせ、正蔵の面には大人になっても消えることのない引き攣れた赤黒い火傷痕が痛々しく残ってしまった。
その件により正蔵は千夜子の母(正蔵の祖母)の家へと預けられた。
千夜子はというと、あれから何日も経たないうちに作家と自称するルンペンのような男と二人で暮らすようになったが、ある晩男は千夜子の稼いだ日銭や家財を奪い尽くし姿を消してしまった。
その翌日、千夜子の死体が隣町の川辺に浮き上がったのだが、それがトキや正蔵の耳に届いたのは随分と経ってからだった。
正蔵十六の春、祖母のトキが流行りの肺病でこの世を去ってしまう。
生前床に伏せるようになったトキは、火傷跡の所為で働き口のない正蔵を不憫に思い、かつて三十年間使用人として勤めていた麻原伯爵宛てに無礼を承知で手紙を送っていた。
当主である麻原隆臣は、当時伯爵の地位を持つ華族であった。
姉を二人持つためか、もともとそういった性質なのか、温厚で心優しく平和主義な性格で、政治や情勢よりも、物語や絵画など芸術的な感覚を大事にしていた。
トキは隆臣の世話係ということもあり実の母のように慕われており、正蔵が眠れない夜の寝物語に、トキはまだ幼かった頃の隆臣の話をよくしていたことを正蔵は今でも覚えている。 
女姉妹しかおらず長男である隆臣はそのまま家徳を継ぎ伯爵となったが、穏やかで政治を好まない彼を非難する声は多かった。
しかしトキは麻原伯爵の人間らしい暖かさを絶えず褒め称え、正蔵もまた、祖母の話す隆臣という人物の華族らしからぬところに親近感を覚えていた。
手紙を読んだ伯爵はトキの頼みならばと、正蔵を使用人として快く迎えた。
初めこそ伯爵は正蔵の痛々しい火傷跡に驚いていたが、彼を使用人のひとりとして他のものと分け隔てることなく受け入れた。
しかし、他の使用人たちが伯爵と同じように正蔵を受け入れてくれる筈もなく、些細な嫌がらせが続き、正蔵は仕事を寄越されない日が続いた。
何もしないわけにはいかないと、正蔵が自発的に掃除や庭の手入れをしていると、西洋の球体間接人形のような可愛らしい少女が彼のもとに駆けてきた。
麻原伯爵の一人娘「綾乃」だった。
当時十歳の綾乃を初めて見た正蔵は、その可憐な姿に言葉を失った。
瞬きをしたら音が立ちそうな長い睫毛に、くりくりと忙しなく動く大きな瞳。
紅を引いているような真紅の唇。白い頬は上気したように灯っていてなんとも愛らしい。
艶やかな黒髪を真っ直ぐ切り揃え、菫色の大きなリボンで括っていた。
「お前、なまはげみたいね!」
それが、綾乃が初めて正蔵にかけた言葉だった。
正蔵は顔を隠すよう髪を長く垂らしていた。
いつも俯いていたため酷い猫背で、人と話すときに前髪の隙間から窺う癖があり、なまはげという表現に正蔵は妙に納得してしまう。
「は、初めまして綾乃様、こちらで働いております正蔵と申します」
正蔵は頭に巻いていた手拭いを外し、汗でしっとりとしているそれを握りしめ、頭が地面に着くくらい深々と頭を下げた。
「なまはげ、ちょっと手伝って頂戴」
若奥様のようなませた口調で綾乃は庭の奥へと歩き出す。
着いてこないなどとは露程も考えていない堂々とした足取りに、生まれ持っての品格や自信が滲み出ている。
(なんて眩しい人だろう)
ひょいひょい草木を避けながら器用に進んでいく綾乃を、正蔵は五尺三寸もある巨体を小さく屈めながら必死に追いかけた。
ハナミズキの並ぶその奥には、僅かな風にもだらしなく開閉するぼろい庭木戸があった。
(華族様のお屋敷だっていうのに、随分と不用心だなあ)
そんなことを考えながら扉を潜ると、綾乃がよく通る声を上げて一本の桜の木を指さした。
「なまはげ、あの子を助けてあげて」
木の上には真っ白い子猫がニィニィとか細い声で鳴いていた。
「登ったら降りられなくなったんですね」
それにしても随分高いところまで登ったなあ_
正蔵は着物の袖と裾を捲り、ぽいぽいと草履を脱ぎ捨てると桜の木に手をかけた。
幼い頃、友人のいなかった正蔵は一人でこうして木登りをしたものだった。
誰かと木に登ったことはないけれど、他の誰より高く上手く登れる自信があった。
他の子らと違い、日中外に出られない正蔵は夜の野山を駆け、静かな草原で寝転んだのだった。
正蔵は猿のように軽やかな足取りで木に登り、枝の先で怯えるている子猫に手を伸ばした。
「もう少しよ!」
木の下では綾乃が小さな手をぎゅっと握りしめて見守っている。
しかし、手を伸ばせば伸ばすほど子猫はどんどん枝先に行ってしまう。
子猫が少し動く度にぴきぴきと枝の裂ける音がした。
「あっ!危ない!」
綾乃が叫ぶのと同時に子猫の乗っていた枝が折れた。
少女は両手で目を塞ぎしゃがみこむ。
「馬鹿!役立たず!唐変木!阿呆!」
驚いた綾乃は十年間のうちに見知ったありったけの罵詈雑言を吐き散らして泣き喚いた。
「綾乃様、ご心配おかけしました」
恐る恐る目を開けると、正蔵の胸には白い子猫が抱きかかえられていた。
穏やかに微笑む正蔵を見て、自分の取り乱し様が恥ずかしくなった綾乃は少し憎まれ口を叩きたくなった。
「私が心配したのはお前じゃなくて子猫よ」
少女は心底安堵し、着物の袂で豪快に涙と鼻水を拭う。
それがいかに高価な着物であろうと彼女には関係ない。
まだ幼いという理由を抜きにしても、麻原綾乃という女性は生涯そういう女性だった。

正蔵十六
綾乃十
桜の葉が青々と生い茂る初夏のこと。



それからというもの、綾乃は他の使用人たちが父や母の目を気にして断るようなことすべてを正蔵に頼んだ。
琴の稽古から逃れるため匿ってもらったり、得意の木登りを教えてもらったり、お気に入りのお菓子を分けてやったり。
正蔵は父の意見や周りの目など気にしない。
綾乃は正蔵のそういったおおらかで少し抜けているところが気に入っていた。
「正蔵、祭りに行きたいから付いてきて頂戴」
その日もいつもの調子で綾乃は正蔵に言いつけた。
しかし今日の正蔵はいつもと様子が違う。
「申し訳ありません。正蔵は綾乃様の頼みならばどんなことでもお聞きしますが、それだけはいけません」
「どうして?外へ出るから?」
「はい、外へ出るのならせめて執事長の高岡様でないと・・・」
「私はお前がいいの!」
我儘を言う綾乃が愛しくてしょうがない正蔵であったが、華族令嬢である綾乃が使用人如きを連れ歩くところを見られてしまったら雇ってくれた伯爵の恩を仇で返すこととなる。
そして何より顔の爛れた男を連れた綾乃が人々から嘲笑されてしまうんじゃないかと思うと恐ろしくて仕方がなかった。
自分のことならば何を言われても、石を投げられても平気だが、綾乃に同じことをされたら正気でいられる気がしない。
「意気地なし、じゃあ一人で行くわ」
こうなったら何を言われても聞かないのが綾乃である。
意固地になった彼女は、まだ日も落ちていないというのにいつもの裏庭から外へ逃げ出した。
慌てた正蔵は近くにいた者に軽く事情を話し、彼女が向かったであろう近所の神社へと一目散に追い駆けた。
神社に近づくにつれ祭囃子の音が大きくなっていく。
まだ祭りは始まっていないようだが、神輿が既に町内を回っているらしく、神社までの道筋には人が溢れていた。
嫌な予感がする。
綾乃が麻原伯爵の娘だということはこの辺りに住む者なら誰もが知っている。
人間の悪意というものは、どんなときにでも現れる。
家族令嬢となれば攫って身代金を要求したり、傷物にして家長を脅す輩がいてもおかしくない。
(綾乃様、どうかご無事で)
辺りを見ても、余った布で継ぎ接いだみすぼらしい着物の子供しかいない。
そんな中、美しい細工の施された着物を纏う綾乃はどれほど目立ってしまうことだろう。
正蔵はなんとか冷静さを欠かぬよう血が滲むほど指を噛み、痛みで頭を覚ました。
体中の神経を研ぎ澄まし、綾乃の匂い、立ち振る舞い、声など、全ての要素を五感で探る。
楽し気な笛の音や太鼓の響きが、水中を通したみたいにぼんやりとしか聞こえなくなるほど正蔵は集中していた。
綾乃を探し駆けまわってどのくらい経っただろう。
すでに辺りは真っ暗になり、あちこちで提灯が灯っていた。
正蔵は大きな体を震い、喉の乾くのも忘れ走り続ける。
彼女の心細さを思うと、自然と目から涙が零れていた。
「綾乃様・・・」
自分の不甲斐無さに、正蔵は暫し立ち止まり、静かに啜り泣いた。
「鬼が泣いている」
正蔵の姿に気が付いた誰かがそう呟くと、異様な形相の正蔵の周りにはすぐ人だかりができた。
何やら恐ろしくなり逃げ出そうとすると、体格のいい男たちがいやらしく嗤いながら正蔵を囲んだ。
(ああ、こんなことは久しぶりだ)
正蔵が祖母に引き取られて四歳になった頃、祖母に内緒で近所の川へ遊びに行った。
其処には自分と同じ年頃の子供たちが川辺で楽しそうにはしゃいでいた。
その様子に嬉しくなった正蔵が見ず知らずの子供たちのもとへ駆け寄ると、子供たちは「鬼がでた!」と逃げ出してしまった。
しかし正蔵の後ろには何もいない。
子供たちは何を見たのだろうと再び近づくと、子供たちの輪から正蔵より背格好の大きな少年が向かってきた。
「何しに来た、化け物め」
言うや否や少年は正蔵の小さな体を突き飛ばした。
「鬼!でていけ!」
逃げ出した子供たちが正蔵に向かって石を投げる。
そのとき彼は「鬼」というのが自分のことなのだと気が付いたのだ。
そのことがあってから、正蔵は祖母に昼間の外出を固く禁じられた。
こうして長いこと人目をはばかり、顔を隠すようにして生きてきた。
外へ出ればどんなことが待っているか、綾乃との幸福な日々のおかげですっかり忘れてしまっていたのだ。
「大の男がめそめそ泣きやがって、気色悪い」
一人の男が正蔵を羽交い絞めにすると、次から次へと重たい拳が降り注ぐ。
この期に及んでも正蔵の性分は、誰かを傷つけずに済ます方を選んでしまう。
正蔵は抵抗しない。反撃もしない。
例えそれがどんなに理不尽な暴力だったとしても、正蔵という男は人を傷つけることを何よりも恐れたのだった。
止まない暴力に正蔵の顔はみるみるうちに腫れていき、火傷跡が目立たないほど血で赤黒く滲んでいた。
祭囃子と野次馬たちの喧騒。
異様な熱気に包まれた男たちが、祭りの興奮に乗じて人を殺してしまうなど、珍しい話ではない。
しかし今日だけは諦められない。
まだ綾乃を見つけていないのだ。
「一緒に帰らないと・・・」
ぼんやりとした頭の中で、正蔵が男の拳を掴んだそのとき_

「それ以上およしなさい」

凛とした少女の声が、狂気に膨らんだ熱を一気に払った。
そこには屋台で売られている狐の面を被った少女が立っていた。
「綾乃様・・・」
その佇まいと華やかな空気は紛れもなく綾乃のものだった。
「あの着物、相当な身分の娘さんだぞ」
「綾乃様って言ったな」
「もしかして、麻原伯爵のご令嬢じゃないか?」
「まさか、そんな方がお連れも無く一人で祭りに来るわけが・・・」
正蔵の呟いた名前と彼女自身の高貴な身なりに人々は騒めき立つ。
狐面の少女が一歩進むごとに、人々は一歩、また一歩と後ずさる。
自然と、彼女の進む道が真っすぐ切り開かれた。
その先にいるのは、およそ彼女と交わることのないみすぼらしい着物を着た醜い男だった。
「正蔵、帰るわよ」
綾乃が差し出した手を強く握りしめ、二人は祭りの喧騒から姿を消した。
十歳でありながらその堂々とした振る舞いに、人々は何も言わず。
ただただ冷えきった頭で少女に律された自分たちの愚かな行動を恥じた。

「綾乃様、ありがとうございます。申し訳ございません」
喋ると口の中から血の泡が噴き出てしまう。
それでも正蔵は何度も謝り、何度も感謝した。
綾乃は何も言わなかった。
狐の面で表情もわからない。
しかし彼女は彼女で自分の行いを酷く後悔し、反省していた。
己の身勝手な行動によって誰かに被害が及ぶことを、彼女は生まれて初めて身をもって理解したのだ。
「綾乃様、随分とそのお面が気に入ってるようですね」
場を和ませるため叩いた軽口に、面越しではあるが彼女が少しむっとしたように感じた。
「外さないんじゃなくて、外せなかったのよ」
言いながら面を取った彼女の顔に、正蔵は息を飲んだ。
泣きはらしたような真っ赤な瞼、頬には乾いた涙のすじが浮かび、鼻水が固まっている。
「助けに来た私が泣いていたら、格好悪いでしょう」
だからお面が必要だったのよ_
あっけらかんと言いのけてはいるが、十歳の少女が暴漢に立ち向かうためにどうしたらいいか冷静に判断し行動した結果なのだ。
それが例え恐怖で溢れる涙を隠すためだとしても、その勇気としたたかさは誰にでも真似できるものではない。
綾乃のような誇り高い人に仕えることが出来る喜びに改めて正蔵の魂は打ち震えた。
「もう私には必要ないから、これはお前にあげるわ」
正蔵の頭に、彼女の誇りと勇気が詰まった狐の面が授けられる。
「これを着ければ、来年は一緒にお祭りに行けるわね」

正蔵十七
綾乃十
鳴き尽くした蝉が土に還る晩夏のこと。

正蔵が屋敷に勤めてから七度目の春が過ぎようとしていた頃。
由緒ある公家の出である伯爵家にも、時代の流れとともに暗雲が立ち込めていた。
性格的にも資金面に疎かった麻原氏は、古い友人に投資の話を持ちかけられ失敗し、家財を売ろうとしたところを物売りに騙され安価で買い取られてしまう等、何をするにも痛手を負うという有様で、屋敷にある食器や着物を売って食い繋ぐも家財は減る一方だった。
それに加え金銭感覚の変わらない長兄の花街通いや借金によって、いよいよ屋敷を売りに出さなくてはならないほどに追い詰められていた。
到底使用人など雇っていられるほどの余裕はなく正蔵もいよいよ暇を出されそうになった頃。
そういった事情を耳にした望月典敏という外務省の男がどこからか美しいと評判の麻原綾乃の噂を聞きつけ、婚約を申し込んだ。
父親とそう歳の変わらない高齢の政治家との婚約を綾乃は激しく拒んだが、一方でこのままでは今の貧しい生活が更に酷くなるということも理解していた。
老人の性の相手さえすれば、父や母を路頭に迷わせることもない。
しかし誇り高い彼女にはそのような下賤な考えがどうしても出来ず、綾乃は望月との食事の誘いを断り続けていた。
本来ならば無礼極まり無い態度にも関わらずこの望月という男は「御転婆な娘だ」と笑い飛ばせるほどの余裕があった。
一層貧窮していく生活と、兄の借金取りが昼夜問わず取り立てに来ることに観念したのか、綾乃はあることを条件に望月氏との婚約を受けることに決める。
それは、望月が正蔵を使用人として雇うというものだった。
彼女の幼い反抗心と情念に気が付かないわけではなかったが、望月にとって彼女の心境等どうでもいい事であり、重要なのは華族令嬢を娶るということと、好きに出来る瑞々しい肉体であるということだけなのだ。
使用人との下らない乳繰り合いなど、望月にとっては鼻で笑い飛ばす程度のものだった。
こうして綾乃の犠牲の元、この立派な屋敷と家族の生活は守られることとなる。



十七になった綾乃は、海外の映画女優のような目鼻立ちのはっきりとした美形だった。
滑らかな白い肌に艶めく黒髪がよく映え、めりはりのある豊かな身体は遠目でもすぐ彼女だと気づかせる華やかさがある。
しかしその力強い美貌にうっすらさす影が彼女の妖しい魅力を惹きたて、社交界でも数々の男たちを魅了していた。
(堪らねえなぁ・・・)
使用人として雇われて三か月、吉郎は綾乃の美貌とはち切れそうな身体にむしゃぶりつきたくて気が狂いそうだった。
幼い頃から女体ばかりに気を取られてきた吉郎は、年に数度という高い頻度で強姦まがいのことをしてきた。
初めて女を犯したのは十二の頃だった。
使いを頼まれた道中で迷子になったという七~八歳くらいの少女に声をかけられた。
道を案内するふりをしてそのまま草叢に連れていき、着物を剥いだ。
情交のやり方など知らない吉郎はただ欲望の赴くまま少女の身体を弄り、薄っぺらい乳を吸い、腿や割れ目に必死に股間を擦り付け果てた。
用の済んだ吉郎は、少女を草叢に捨て置きそのまま使いを果たし、何事もなかったかのように家に帰った。
それからというもの、吉郎の頭の中は常に性の欲望しかなく、勤め先や奉公先で強姦や痴漢を繰り返し、そのたびに名を変え土地を変え生きてきた。
現在吉郎は「仁志」と言う名で麻原家に仕えている。
しかしこの吉郎という男はとにかく不器量で、麻原の使用人たちが口を揃えて気色悪いと避けるほどであった。
全体的に枝のように痩せており、顔には一切肉がなく、落ち窪み飛び出た目玉でじろじろと人を見る癖がある。
歯のほとんどを失っていて、唯一残っている歯でさえ黒く欠け、口の中には常に粘ついた唾液が糸を引いていた。
それに加え吉郎はひどく要領も悪かった。
何度教えても雑巾は絞らずに使い床を水浸しにし、雑草ではなく花を毟り取る始末。
このような人間を伯爵はなぜ雇ったのかと問えば、それは彼の器の広さという長所と世間知らずという短所が作用したということは言うまでもない。
(綾乃という女は何故正蔵みたいな気持ち悪い奴を気に入っているんだろう)
それは吉郎だけでなく、二人を知らない者なら誰しもが思い至る疑問だった。
しかしその多くは正蔵と触れ合うことで彼の優しい人柄やあたたかい心根に納得することとなる。
ただ、吉郎のような無神経な男にそういったものを感じ取れるはずもなく、正蔵が気に入られているのなら自分も・・・といったあまりに愚かしい考えに至るのだった。
(あんないやらしい女と毎日一緒にいて、正蔵の奴よく平気でいられるな、俺なら毎日おめこすることしか考えられねぇ)
吉郎は隙あらば主人である綾乃を舐めるように眺めていた。
しかしその不躾な視線に真っ先に気が付くのは、綾乃ではなく彼女の飼い犬である正蔵だった。
正蔵は引き攣れた赤黒い顔を歪ませ、鬼のような凄まじい形相で吉郎を睨みつける。
吉郎は慌てて箒をふり、枯葉を集めるふりをした。
(あのおっかねえ目で睨まれたら恐ろしくて何もできやしねえよ)
吉郎の目に真っ先にいやしい何かを感じとってきたのか、正蔵は吉郎が屋敷に仕えたばかりの頃から常に監視していた。
おかげで偶然を装い女の尻すら触ることもできない日々が続いている。
(ただの番犬風情がよぉ)
吉郎は箒を投げ棄てた。
仕事中だというのに使用人部屋に戻り、憂さ晴らしにマスを掻いた。
とりあえず一番記憶に新しい綾乃を思い浮かべる。
痩せぎすの体を白くふくよかな肉に埋めるように、埃臭い布団に股間を押し付け吐精した。

綾乃と正蔵。
二人の間には友人、恋人、家族、主従など様々な鎖で縺れている。
幼い頃、正蔵はお転婆な綾乃に毎日振り回されていた。
稽古を逃げ出しては正蔵の部屋に隠れ、教師の真似ごとで正蔵に文字を教えた日には、まだ「か行」までしか書けない彼に綾乃宛の手紙を書かせたりした。
そんな微笑ましい関係の二人であったのが、年を重ね、綾乃が社交界などに顔を出すようになってからその形は変わっていった。
華やかな美貌を持つ綾乃に言い寄ってくる男は多かったが、そのどれもが彼女を退屈にし、苛立たせる。
聡明な彼女は、男たちが「女性」という生き物に何を求めているかをすぐに理解した。
美しいということは男の魅力を惹きたて
身分が高いということは男の価値を上げる。
女性を利用価値で見てくる男たちにうんざりしたとき、彼女はいつも正蔵のことを思い出した。
正蔵だけは綾乃を綾乃として受け入れてくれる。
いつしか彼女は社交界に足を運ばなくなり、家族ともまともに過ごさなくなった。
正蔵と過ごす時間だけが彼女を癒し、満たしてくれることに気が付いたのだ。
そんな気持ちはいつしか正蔵を一人の男として認識するようになり、年頃の彼女がどうしても肌に重ねたいと乞うのは当然のことだった。

「正蔵、私を抱いて頂戴」
まるでお茶でも頼むように綾乃は言った。
いつものように寝転ぶ彼女を按摩していた正蔵は、そのはっきりとした言葉に思わず飛び退いた。
「なによ、今までだって似たようなことしていたじゃない」
「それは、そうですけど・・・」
綾乃はよく正蔵に身体中を舐めさせていた。
淫らなことに関しては何を言っても聞かない正蔵にしびれを切らした綾乃が、怪我をしたからという言い分で脚を舐めさせたのが始まりだった。
一度ふざけて正蔵の体に触れようとしたところ凄まじい剣幕で叱られたので、自分の体を舐めさせるだけに留めていた。
正蔵の熱い舌が、首から胸へ下りてゆき、その頂点に達したときのふつふつと沸き起こる高揚。
腿の付け根から真ん中に到着した舌が、熱く熟れた襞をちろちろと弄ぶと、綾乃は興奮と幸福で胸がいっぱいになるのだった。
幾度となくその先を求めたが、忠犬である正蔵はどんなに股間がはち切れそうになろうとも絶対に続きをしてくれなかった。
もう暫くしたら、綾乃はこの屋敷を出て望月に飼われてしまう。
正蔵が共に付いてくるにしても、伯爵の令嬢として、愛する父のためにも望月の家で恥を晒すわけにはいかないのだ。
どんなに愛して、傍にいたとしても、嫁いでしまえばもう正蔵とこうした甘い時間を過ごすことはできない。
「正蔵は私を抱きたくないのね」
「そんなわけがありません」
「じゃあ何を迷っているの」
この愚かな犬は、この期に及んでも自分を高貴な人間だと信じて疑わない。
正蔵を想って何度自分を慰めたか知れない。
どんな淫らで汚らわしい想像をしているか。
華族なんて身分は所詮ただの称号だ。
服を脱いでしまえば皆等しくただの肉だというのに。
堪らなくなった綾乃は正蔵に抱きついた。
首にかかる柔らかな髪にあたたかい頬の感触。
厚い布越しでもわかるそのふっくらとした弾みの乳房が正蔵の胸板にぎゅうぎゅうと当てがわれる。
そんなことをされては正蔵の身体は、嫌でも反応してしまうのだった。
「綾乃様、どうか、どうか・・・」
震える手で綾乃の肩を掴むが、どうしてもそれを突き放すことができない。
だからといって背中に手を回すこともできなかった。
それは使用人であり、貧しい家でこそこそと日陰を生きてきた正蔵には恐れ多い感情であり、本能の衝動だけで片付けてしまっていいことではないからだ。
彼女を抱いてしまったら、この七年の間、醜い自分を雇ってくれた伯爵や、綾乃と過ごしてきた美しい思い出を無かったことになってしまう気がして怖かった。
「正蔵、正蔵」
拒めない正蔵の口を、綾乃の小さな唇が啄んでゆく。
熱い吐息を吹き込みながら、あまりにも切ない、乞うような接吻だった。
「綾乃様っ・・・」
正蔵はもう堪らない思いだった。
そこに情欲がないといえば嘘になるが、それよりも深く大きな愛情から正蔵は綾乃を強く抱きしめた。
「正蔵、お前が好きよ」
涙を流しながら想いを伝える綾乃が、切なくて哀れで正蔵は胸が張り裂けそうになる。
こんなにまで必死に愛を乞われながら、返さないなどという惨いことはを正蔵にできるはずもなく、その言葉に応えるように、正蔵は何度も何度も綾乃を奥深くまで突き、豊満な身体を余すことなく貪った。
やがて精が尽き果てても、二人は餓えた獣のようにいつまでも交ざり合った。

その日から、正蔵と綾乃は昼でも夜でも関係なく身体を求めあった。
綾乃は正蔵が仕事をしていようがお構いなしに誘い出し、そこが庭であろうが蔵であろうが目合った。
たまの夜には狐の面をした正蔵が綾乃の寝室に忍び込み、綾乃はふざけて「だあれ?」などと言い、面をしたままの正蔵に無理矢理犯されるという不埒な遊びを好んだ。
屋敷には毎日綾乃のあられもない嬌声が響き渡った。
それがいかにはしたない行為か理解しているが、十七の女盛りに旺盛な老人に身を預けることとなった哀れな彼女の身の上を考えれば誰も咎めることなどできない。

誰もが顔を背ける痛ましい叫び声と肉の交じり合う音に、哀れな虫だけが聞き耳を立てていた。
いじましく壁に耳を当て、腫れた熱を揉みしだき、無様に膿を吐き出す。
そんな下劣な虫でさえ、闇は等しく飲み込んだ。

正蔵二十三
綾乃十七
腐臭立ち上る盛夏のこと。

夏の主役だった向日葵が朽ち果て刈り取られた夜。
彼女たちが夏の間眩しく輝いていたことなど男には一切興味が無い。
夜は死の世界だ。
人が汚らわしいと顔を背けた世界にこそ、男には用がある。
昼であれば絶対にできないようなことでも、月光が指し示し、夜風が背中を押す。
闇夜がこの世のありとあらゆる毒を飲みほし、隠してくれる。
男にとって夜は絶好の機会だった。
或る部屋の前で立ち止まり、子供がつけるような狐の面を被る。
扉は少し押すだけでキィと間抜けな音を立てて開いた。
どんなに華やかな美貌を持ち、滑らかな寝具を纏っていても、深い闇の中ではすべてが同じ色となり、皮膚の感触だけが全てだ。
男は履いてきた草履を帯に押し込み裸足になった。
足の裏からひんやりとした板敷きの床の感触が伝わってくる。
「だあれ?」
くすくすと媚びるような声が静かな部屋に響き渡る。
邪魔なものは全て剥がしてしまおう。
満月のお陰か、今宵はやたらと夜目が効いた。
部屋中に漂う女の香りに思わず唾が溢れる。
ごくり。
闇夜が毒を飲み込んだ。

あら正蔵、何を突っ立っているの

私、可笑しくて可笑しくて仕方がないのよ

女は所詮肉の壺だってことに気が付いてしまったの

琴の腕前も、美しい着物も必要ない

愛も知性も教養も品性も美貌も財力も家柄も関係ない

肉の壺さえあればそれでいいのよ

ふふ、なんて可笑しいのかしら

その証拠にほら

私の肉の壺はお前が欲しくて欲しくて涎を垂らしているでしょう

だからもう一度

深く刺して頂戴

ねえ正蔵

お願いよ



喉が渇いていた
渇いて渇いて仕方がない
それにしてもなんて静かな夜だろう
どうしたって二人で幸せになるにはこの方法しかないのだ

私はその細い首に
ゆっくりと、深く深く
刃を沈めた
彼女はびくりびくりと身体を震わせ
血の泡を吹き出すと
やがて静かに沈んでいった

どうか同じ処へ行けますように
己の首に刃を当て
ゆっくりと、深く深く
肉を裂いた

私の血と彼女の血
まだあたたかな肉は
交じりあい、溶けあった
それはこの上なく穢れない
性交よりも深い幸福だった

闇に飲まれるまでの静謐な刻の中で
私は彼女と最後に交わした約束を思い出していた


「私を殺して頂戴」


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