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ボロボロだったわたしを救った彼の言葉のぬくもり。

ずっとあたためてきた、ジョンヒョンの優しさに救われた話を残そうと思う。


まず、当時のわたしは邦ロックが大好きでロックに生かされているサブカルちっくな少し捻くれた20歳で、SHINeeはおろかKPOP、韓国カルチャーに何一つ興味がなかったことを先に書いておきます。

わたしは、アシスタントディレクターとして勤めていた。どちらかというと音楽に特化した場所だったから、小さなライブハウスに足を運んで映像を撮影したり、ロックバンドが好きで更にその中のニッチな層が見るような番組を制作したり、アルバムをリリースするバンドやアーティストの特集番組を制作するような仕事。そんな中でもほぼほぼロックバンドを取り扱うことが多く、わたしはそれにやりがいと幸福感を日々味わいながら瀕死状態で働いていた。

瀕死状態の説明をすると、家に帰れないのは当たり前。家に帰れないからお風呂にも入れず髪は頭皮の脂でぎとぎとしているなんてこと日常茶飯事。基本人間扱いされないし、遠くから大声で名前を叫ばれ、走って駆け寄ると自分がやったことではないことなのに何故か怒鳴り散らかされる、襟元を掴まれて晒し上げられる、とにかく寝る時間はない、なんなら寝ることは許されない。本当にそんな世界で生きていた。

ボロボロになりながらも生きるために本当に必死で、たまにある自分の好きなバンドのライブの収録に生かされていたなと今になれば思う。それくらいわたしはロックバンドが好きだった。

ある日プロデューサーに呼ばれ、次の特集番組の担当を任された。その出演者は「SHINee」。名前は知ってる。高校生の頃、東方神起のジェジュンに似てると言われたことがあった。そのあたりの人たちだ。知ってるわ、いやいやまじか興味なッッ(興味ない)

申し訳ないのだけど本当にその気持ちでしかなかった。今のわたしがSHINeeに生かされているように、先述した通り当時のわたしはロックバンドに生かされていたから。

番組収録当日、案の定睡眠時間がほぼほぼ取れないまま小汚い自分でスタジオに向かった。坂道での台車の運び方が下手くそで早速プロデューサーに怒鳴られた。カメラのフォーマット設定がうまくできてなくて叱られた。初っ端からやらかしてばかりで落ち込みたいところだけどそんな時間もない。急いで収録の準備をする。カメラの設定、メンバーの座る位置の確認、カメラマンや技術スタッフ、そして演者用のケータリング、小道具や備品、とにかく準備するものはたくさんで、時間もないので急ぐ。

メンバーが座る椅子を5つ準備しなければならない。エレベーターが狭くて椅子を一度に持ってあがることができなかった。ちなちませかせかと椅子を運んでいた時だった。


「だいじょぶですか?」

演者に声をかけられた。「あ、2番目に好きだと思った人だ」と理解した。というのも、番組収録にあたってアーティスト資料というものを作成する必要があるわけだがその時にメンバーの写真に名前を入力しながら、ぼんやりと「1番好きな人」を見つけていた。ちなみに当時はダントツでミノ好き!だった。笑
その次にこの人がいいなと思ったのがジョンヒョン。だから覚えていた。むしろ多分2人のことしか認識できていなかった。あとはテミンに対してすごく韓国なお顔だなと思ったくらい。ほかは、メンバーがスタジオ入りした時アテンドしたはずなのに何も覚えてないくらいだ。

「あ、だいじょうぶですありがとうございます」

ニット帽をかぶって頭だけは誤魔化していたけれどお風呂に入ってない徹夜明けのボロボロすっぴん肌で、とにかく常に誰にも直視されたくなかったわたしは目を合わせてお礼だけ済ませた。その後も椅子をメンバー分運んで、バミリの位置(立ち位置)に持っていく。ADは収録中、それからその準備中、とにかくすべての時間、極力存在力を消さなければならないと思って日々を過ごしていたので「すみません」といいながら縮こまって椅子を持って行ったわけだが、その時も「ありがとうござ(じゃ)います」と言ってくれたのは彼だった。韓国の友達に喋り方が似てて可愛いな!!!と思ったことだけは覚えている。

それから無事収録を終えたわけだけど、会社に戻る車の中でまたプロデューサーに叱られた。涙が出た。悔しくてたまらなかった。その日の収録を振り返る。それで思い出した。演者に「大丈夫ですか」と心配してもらったのは、この仕事をしていて初めてだった。その温かさに1人で感動していた。ありがとうございますとかすみませんはよく言われる言葉だし、わたしもよく言う。でも、当時普段人間扱いされていなかったわたしたちにそうやってあたたかい言葉をかけられる人というのは、現場で周りのことを見ている人でないと恐らく簡単には出てこない言葉だと思う。

「大丈夫ですか」も「ありがとうございます」も、当時のわたしにとって、本当に本当に、偉大なパワーを持つ言葉だったんだ。


演者にとって、収録が始まるまでは現場が整うのを待っていることが当たり前だし、番組のための現場づくりに励むのがわたしたち制作陣の役目だと思っている。だからこそ、彼のその一言に自分は救われた。

あの時もらったCDはもうどこに行ったか分からないし、その番組の同録も必要ないと思って所持していない。でも、毎日ボロボロだったわたしの記憶には、とても鮮明に彼の優しさのぬくもりが残っている。そんなふうに、彼はいったいどれだけの人を救ったのだろう。少なくとも、今彼がいないこの世界で彼を恋い慕っているわたしたちが救われているのは紛れもなく事実。

会えない悲しみはきっとずっと癒えることはないけど、彼をいつまでもおもい続けるこの気持ちがある限り彼はいつだってそばにいると、わたしはそう思う。


シャヲルになった今、どこかでこれを残しておかなければと思ってなかなかできずにいた。勇気がとても必要だったから時間がかかった。もう、10年近く前の話。 


こんな拙い文章、最後まで読んでいただきありがとうございました。

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