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北の海の航跡をたどる〜『稚泊航路』番外編 『宮澤賢治と対馬丸』

プロローグ

1922年(大正11)11月1日、最果ての街、稚内に鉄道が開通します。
その9か月後の1923年7月31日に岩手県花巻を旅立った男が8月2日午後9時45分、稚内停車場(現 JR南稚内駅)に黒皮の鞄を持って降り立った。
彼は、「雨ニモマケズ」の詩で知られる宮澤賢治。当時26歳でした。

賢治は、その生涯において3度、北海道を訪れている。いずれも大正時代で大正2年と12年そして13年である。
このうち2回目の大正12年(1923年)が北海道を経由して遠く樺太への旅となる。


宮澤賢治 Profile

1924年(大正13)1月12日 撮影(北海道・樺太旅行の翌年に撮られたもの)

【宮澤賢治】1896~1933 Miyazawa Kenji
1896年(明治29)8月27日、岩手県花巻市生まれ。盛岡高等農林学校(現 岩手大学農学部)卒。花巻農学校では4年間、化学や農業実習などを担当、退職後は農業指導に専念した。旧制中学時代の修学旅行(大正2年)、樺太・北海道旅行(大正12年)、花巻農学校の修学旅行引率(大正13)と計3回、北海道を訪れている。北海道をハイカラな地と感じたらしく、例えば「風の又三郎」では主人公を服に靴の洋装で北海道から東北へ転校させている。1933年(昭和8)9月21日没。享年37歳。

最愛の妹トシ

1896年(明治29)8月27日に岩手県花巻で生まれた宮澤賢治は、1918年(大正7)に盛岡高等農林学校(現 岩手大学)を卒業したあと研究生として残り、そこを終えた1921年(大正10)12月には、岩手県稗貫郡立稗貫農学校(大正12年4月1日付で岩手県立花巻農学校)の教諭となった。
24歳になっていた最愛の妹トシ(とし子)を病気で失ったのは、その翌年にあたる1922年(大正11)11月のことでした。
トシは、日本女子大を卒業して花巻高等女学校の英語教師を務めていた才媛でした。

妹トシ

北海道・樺太への旅立ち

妹トシが亡くなった翌1923年(大正12)の夏、27歳の賢治は、夏休みを待ちかねたかのように北へ旅立ちます。
賢治が花巻を旅立った日は、7月31日なのは間違いありませんが、乗車した列車については、正確に分かっていません。しかし、可能性が高いのは、花巻発21時59分(803列車)か07時11分(201列車)であるとされています。
賢治が樺太への旅の途中で詠んだ詩の日付や内容から推察すると21時59分発が有力視されているようです。

旅の目的

賢治の樺太渡航の目的の1つは、研究者によると妹トシと心の交信を試みるとかトシの魂の行方を追い求める為に旅立ったというのが定説になっています。
ノンフィクション作家・梯久美子さんの著書「サガレン」(2020年ノンフィクション本大賞ノミネート)でも賢治の樺太旅行の目的について触れています。

梯さんは、「死者の魂を追いかけて北へ向かう汽車に乗る、というのは、正直言って、私には、いまひとつピンとこなかった」と述べている。
「私にわかるのは、鉄道好きだった賢治が日本最北端の駅だった栄浜駅まで、汽車に乗って行ってみたいと思ったであろうことである。同じ鉄道ファンとして、そこのところはわかりすぎるほどよくわかる」と。

私も全く同感です。確かに妹トシが亡くなった悲しみ・寂しさはあったでしょう。そういう意味では樺太への旅は、センチメンタルジャーニー(感傷旅行)といえます。しかし、花巻から樺太・栄浜まで1400キロの鉄道の旅が可能となり、また、樺太への新たな航路、稚泊航路が開設されたことへの
”元祖鉄ちゃん”(鉄道愛好家)としての興味も絶対、あったはずです。さらには、未踏の大地・樺太という北の新天地を訪れてみたいとう気持ちもなかったでしょうか。
その時、”公の目的”(業務)として生徒の就職先依頼が樺太へ行くという賢治の背中を押したように思うのです。

生徒の就職依頼

公の目的とは、農学校生徒、瀬川嘉助、杉山芳松(大正13年3月卒業)の就職を樺太・大泊の王子製紙㈱大泊工場で細越健(賢治の盛岡高等農学校の1年後輩)に依頼するためでした。瀬川については不明ですが、杉山は、花巻農学校を卒業したあと王子製紙㈱大泊支社山林部に就職しています。

王子製紙㈱大泊工場(樺太・大泊)

稚泊連絡船『対馬丸』乗船

このような寂しい気持ちを持ちながらも旅への大いなる期待を持った賢治が鉄道開通9か月たった稚内停車場に降り立つのが、1923年(大正13)8月2日の21時14分です。 

稚内停車場ホーム

樺太へ渡るためには、稚内停車場から稚泊連絡船へ乗るため1.6km離れた稚内仮連絡待合所に移動しなければなりません。
賢治は、徒歩か馬車を利用したでしょう。

稚内停車場

稚泊航路が開設されたのは、1923年(大正12)5月1日で賢治が稚内へ到着する3カ月前のことです。
航路開設時の就航船は、『壱岐丸』(1680㌧)でしたが、同年6月9日に砕氷工事の為に同航路を離れます。

その代わりに就航したのが『対馬丸』(1839㌧)で賢治が乗船することになるのは、この連絡船です。運航は、「対馬丸」1隻だけの就航で奇数日は、樺太・大泊発、偶数日は、稚内発で約164kmを夜間に8時間で結んでいました。

稚泊連絡船『対馬丸』

稚内到着から乗船まで約2時間ですが停車場から連絡待合所までの移動を考えると、あまり時間的余裕はなく稚内の街を散策することは出来なかったでしょう。
連絡待合所からは、艀(ハシケ)で「対馬丸」へ向かいます。

稚内仮連絡待合所(稚内港)

船は夜行便なので、ほとんどの乗船客は、乗り込むと同時に眠り支度を始めたでしょう。
賢治は、鉄道移動の旭川~稚内間(約8時間)は詩を詠んでいません。疲れていたのでしょうか。そんな彼は、甲板で出て離れていく街の灯を眺めています。

宮澤賢治は、初めて稚泊航路を往復乗船した詩人・作家となったのです。

『宗谷挽歌』

「対馬丸」は夜行便なので、船員は、夜間船内巡視を行っていたと思います。そんなおり、甲板に男性が一人、夜の景色を眺めている。船員の目には男性がとても疲れているようにも見え、自殺者と勘違いされたともいいます。

現在の稚内港夜景

賢治は、この時の気持ちを『宗谷挽歌』で詠んでいます。

「対馬丸」から見る稚内は、まだ港としては、ほとんど整備されていない状況でした。賢治が、「稚内の電燈は、一列とまり、その灯の影は水にうつらない」と詠んでいるように、夜の稚内の海岸沿いの灯りは、地味だったようです。個人的には、現在もあまり変わらないような気がしますが。。。

この「宗谷挽歌」は、稚内を離れ、濃霧の夜の海峡を渡る情景が鮮やかで妹トシへの傷心も十分に伝わってくる詩です。

この詩は、樺太の旅の翌年1924年(大正14)に刊行された名詩集として誉れ高い『春と修羅』の中には、収録されず、生前には発表されなかったそうです。

『春と修羅』

研究者によると、内容があまりに激しかったため、賢治自身があえて公表を避け、「春と修羅」から削除したともいわれたり、また、感情が先走りして、いまひとつの出来栄えと賢治が考えたからともいわれています。

樺太上陸

稚内から8時間の航海を終えて、「対馬丸」は、8月3日午前7時30分に大泊港に到着します。
当時は、まだ、大泊港駅は建築されておらず、艀(ハシケ)による上陸でした。大泊では、王子製紙大泊工場へ細越健を訪ね、教え子の就職を依頼しています。

艀発着場(樺太・大泊)

『オホーツク挽歌』

午前9時30分(午後1時10分発という説もあり)、細越と別れた賢治は、樺太庁鉄道で栄浜(現 スタロドゥプスコエ)に向かいます。
賢治は、ここに投宿しオホーツク海岸を歩き『オホーツク挽歌』を詠んだ。
彼は、妹トシの死を悲しみ、悲しむあまり、その死と生に意味を見出そうとしたのでしょうか。

樺太庁鉄道

『銀河鉄道の夜』

栄浜の北側に『銀河鉄道の夜』に「白鳥の停車場」が登場することで、関連性が指摘されている「白鳥湖」がある。私も何度か訪れたことがあるが湖周辺は手付かずの自然が残されている。恐らく、賢治が訪れた時とあまり変わりがないと思う。賢治は、ここで満天の星空を眺め、作品のモチーフとしたのであろうか。

『銀河鉄道の夜』

『樺太鉄道』『鈴谷平原』

その後、賢治は、『樺太鉄道』という歌を詠んでいる。その中には、「鈴谷山脈」「コロポックル」「ツンドラ」「サガレンの八月」「フレップ」などという言葉が出てくる。
また、8月7日には、鈴谷平原を訪れ、『鈴谷平原』を詠んでいます。ここは、鈴谷岳を中心とした旭ヶ丘(樺太神社がある)、豊平公園(現 ガガーリン公園)を含む一帯で、樺太八景の一つ。賢治は、ここで植物の採集を行っています。

この8月7日の夜9時に大泊から再び、『対馬丸』に乗船し稚内へ向かいます。稚内には8月8日午前5時に到着。稚内からは、午前7時25分発の2列車に乗車したと考えられています。

8月11日に賢治は午後10時に花巻に到着します。しかし、一説では、所持金を使い果たし花巻までの運賃が払えず、盛岡から歩いて帰ったともいわれています。理由は、樺太で再会した友人たちが料亭に芸者を呼び、そういう遊びに慣れていない賢治は芸者に所持金を渡してしまったという。豊原から盛岡までの運賃と花巻までの運賃では、22銭しか変わらないので、この話は信じがたいですが。

エピローグ

帰り着いた賢治が疲労困憊していたのは間違いなありません。毎日のように夜行列車に揺られ、いくつかの用事を済ませ、しかも、夜も昼も詩を詠み続けていたのだから。
しかし、この北海道と樺太の旅を終えたことによって新たな境地に立った賢治は、トシを悼む死から離れ、新たな人生を歩んでいくことになったと思います。
北海道や樺太の旅が彼にとって重い意味を持っていたことがよく分かります。

なお、樺太の旅の作品に『サガレンと八月』という未完成の童話があります。

遥かサハリン(旧 樺太)の島影が見える稚内市宗谷岬公園の一角に賢治が稚泊連絡船『対馬丸』の船内で詠んだ文語詩『宗谷(二)』の一節が刻まれた賢治の最北端の文学碑があります。

宮澤賢治文学碑(稚内市宗谷)

参考・引用文献
・『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する』 梯 久美子 著
・『北海道文学ドライブ 第4巻・道北編』 木原 直彦 著
・『宮沢賢治とサハリン 銀河鉄道の彼方へ』 藤原 浩 著
・『樺太文学の旅』 木原 直彦 著







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