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3.クレイジーなママ!?(後編)

どうも、限界校正者・カリユメです!
気が付けば9月も下旬に差し掛かろうとしています・・・。少しは涼しくなったかな?と思えば、殺人級の暑さがぶり返し、アラフォーの私はバテバテでございます。

さて、少し時間が空いてしまいましたが、前回から私の母について書き始めました。
前回の記事はこちら↓

それでは、前編の後にどうなったかを振り返ってまいりましょー!

ハッと我に返った母

子どものウソに我慢ならなかった母。
私の首を絞めながら、
「お前なんか、産まなきゃよかった!」
と言いました。
幼い私は、苦しさよりも、その言葉にとても傷付いたのを覚えています。

私と目が合った瞬間、母は手を緩めました。しかし、この出来事の後、その日をどう過ごしたのかは全く記憶にありません。もしかすると、母方の祖父母が来たかもしれません。

「産まなきゃよかった」
この言葉は、その後の私自身に大きな影響を及ぼします。

エスカレートしていく母の言動

小学生になると、ますます母の私への言動は激しさを増していきました。
(そこには、父の「やらかした」ことが大きく関係しているのですが、それはまた今度・・・)

どんなことを言われ/されてきたかというと・・・
友だちと遊ぶ約束もない日は家にいるのですが、

「なんで居るんだ? どこかに行け」

と、よく言われていました。
事前に、どこに行くかを伝えなくてはならないシステムだったので、
仕方なく、自宅から歩いて10分くらいのところにある
「文化センターの図書室に行く」
と伝えて、そこで映画雑誌(『スクリーン』と『ロードショー』)を読み漁っていました。
なので、観ていないのに映画のタイトルには詳しくなりましたね。
ちなみに、友だちの家に電話して「遊ぼう」と誘うことは禁じられていました(何故かは謎)。

その他には、嘘をついたり悪いことをしたりしたときは、ごはん抜きになるのですが、最長で1週間ごはんが出なかったこともあります。
何度かそういうことがあったのですが、
夏休み中は学校で給食を食べられず、当然朝昼晩と抜きになるので、起き上がることもできずに、ずっと横になっていました。
水分は洗面所の水だけ。台所には立ち入り禁止でした。

「人間は水だけで1カ月は生きられるんだ!」

と母は言ってましたね。
1週間経つあたりになると、さすがに「やばい」と思うのか、フラフラの私を連れ出して食事をさせてくれました。

肉体的にも傷付けられることは多かったです。
髪の毛を引っ張られて引きずり回されたり、唇を思いっきり捩じり上げられたり、太ももをつねられて何箇所も痣ができたり・・・。

土下座の強要

怒られるたび、何かしら恐ろしい(?)ことは起こっていたのですが、
そのうちに、土下座を強いられることも増えていきました。
例えば、
「翌日、私にやってもらわないと困ることを土下座してお願いしろ」
というスタイルです。

毎日毎日、夕方か夜になると母に向かって土下座して
「明日のことをお願いします。朝ご飯を食べさせてください。給食費をください。夕飯を食べさせてください。お風呂に入らせてください」等々。
何かお願いし忘れると
「〇〇は必要ないんだな?」
と聞かれるので、その時は、また最初からお願いする、ということをしていました。

ようやく救いの手が・・・?

小学校6年生の時に、ある市から別の市へ引っ越しをしました。
とはいっても、私たち親子の状況/関係は改善どころか、悪化する一方で、私に至っては、転入した小学校でいじめに遭っていました。

母も私との生活に限界を感じたのでしょうか。
引っ越したことで家が多少近くなった、祖父母に助けを求めました。

「このガキとは、もう一緒に暮らせないから引き取ってよ」と。

こうして私は、母方の祖父母と暮らすこととなり、ある意味で救われたのでした。祖父には可愛がってもらっていましたし、祖母は仕事をしていたのですが、私に向き合おうとしてくれたと思います。
ですが、まだ子どもだった私は、母に拒否されたショックと自分の存在している理由が分からなくなったせいで、祖父母に対してヒドイ態度をしていたと思います。うまく笑えなくて、ずっと仏頂面をしていました。悪態をついたこともあります。
今でも祖父母には申し訳ない気持ちでいっぱいです。

小学校6年生で誓った(?)こと

祖父母に助けられた私ですが、引き取られてから肝に銘じたことがあります。それは、

自分で解決できることは自分で何とかしよう

です。
私は、母が恐ろしくて他人に助けを求めることはできませんでした。後々のことを考えれば、私がまた暴力を振られたり、罵られたりすると思っていたからです。

小学校の教師たちは、私が体に痣を作って学校に行っても、「見て見ぬふりをする」人が多かった。一人、母親に電話をしてきた教師がいましたが、母がうまく丸め込んだのか、母の言葉を信じたのか、それ以上は何も起こらず(例えば、児童相談所が来るとか)、むしろ私が教師に告げ口をしたのではないかと疑われて、叩かれました。他人にできることは限られるんだな、と実感しました。なので、未だに私は人に甘えるのが下手です。

このタイトルのおわりに

母との関係を赤裸々に綴ってきましたが、これは全て事実。読むのが辛いとか、私はもっと大変だったとか感じる方もいらっしゃるかもしれません。
私は今回、同情を買おうと思って書いたわけではありません。こういう人間もいて何とか生きていますよ、とnoteを通じて伝えたかっただけなのです。

どこかにいるあなたに寄り添えれば、とても嬉しいです。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。




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