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生きる

しばらく書いていない間に、いろいろな経験をしました。
数年前に浪人を経験してひととしてまるくなったという自負がありましたが、この1か月くらいはそれに勝る濃い時間と深い考えを得られたと思っています。

患者さんの弱音に向き合う

とある実習で家庭訪問に同行しました。伺ったお宅に住んでおられる高齢男性は、管理職として長く仕事をしていた際に付き合いで飲み会に行っていたことが、いま患っている病気に直接繋がっていると思い込んでおられるようでした。

既往歴や家族のお話などをしていたとき、医学生だというわたしの自己紹介を思い出してくれたのか、ふと下を向きながら言葉を発しました。

「あの頃は暴飲暴食していたからねぇ」
「その時の罰があたっているのかな」

わたしの胸はどきんと強く打ちました。
勉強をしていると、たまに癌の患者さんからの弱音にどう答えるべきか、という問題を解きます。例えば、否定したり強い口調で返したりするのではなく、傾聴する必要がある、ということをわたしたちは叩き込まれます。

それはわかっていたものの、実際面と向かって言われてみると、なんと答えてあげたらいいのか困惑し、そのときに自分が出来る精いっぱいの回答に留まってしまいました。

地域包括支援センターの職員さんによると、支援にあたってケアマネージャーと話していた時は病状について「あんまり気にしてないよ~」とニコニコと気にしていない素振りをしておられたそうなのですが、わたしが医学生ということもあっていくつか病態に関する質問をされて、本音を漏らしたのかなということでした。

今後も、さまざまな場面でこういう現場に出会うのかなと思います。病院実習中、主治医の先生に訊きづらいことはわたしたち学生にこっそり訊く人はいるらしいし(詳しいことはわからないので先生に訊いてみましょう、と言うのが正解。自分で勝手に解釈を述べてはいけない決まりになっています。)、卒後希望通り小児科に行けば、患児のご両親から訊かれるかもしれない。

患者さんやそのご家族との関係づくりは一朝一夕にできるものではないし、場合に依るのだとも思います。だからこそ、相手をよく見て自分がかけるべき言葉を常に探していくことがわたしの成長にもつながるのかなと気づける機会でした。

俯瞰して冷静であることの大切さ

1日消防署に詰めて、救急車が呼ばれた際に同乗する実習がありました。

搬送ほどではないレベルのものの通報だったり、病院から病院への移送もある中で、記憶に残っているのは、通報による病院への搬送でした。高齢女性が倒れていると、様子を見に来た長女さんからの通報でした。

救急隊の方から教えてもらったことは「現場と病院とは状況がまったく違う」ということ。確かに、わたしが現場で見たとき、高齢女性は失禁しておられましたが、病院へ搬送する前にきれいな服に救急隊が着替えさせました。ほかにも、交通事故の場合、洗える場合はきれいにしてから運ぶそうです。

確かに、交通事故の例を以前どこかで聞いたことがありました。泥だらけの人ときれいな人が運ばれてきたとき、泥だらけの人が必ずしも重傷ではなく、むしろ血だらけの重傷患者の方を傷口からの感染などを防ぐ意味で前もってきれいに拭いておき、搬送することもあるそうです。だから、わたしたちが判断をする際、必ず状況をよく聞いてから動き出さないと、トリアージを間違えてしまうかもしれないということです。

病院から搬送が断られる現場に居合わせた同級生もいたようです。特に三次救急では、より緊急度の高い患者のために病床を空けておく必要があります。仕方ない部分もありつつ、たらい回しにならないようなシステムを使って患者さんの命は助けられるべきだと思います。

わたしは将来救急の現場で待っていることしかできませんが(ドクターカーは別だけど)、救急隊の方々への感謝を持って仕事したいと強く思いました。

どんな人にも日常はある

地域をまわり、多くのご家庭に伺った日が二日間ありました。
それで感じたのは、「どんな人にも日常はある」ということでした。

病院に居ると、病気である患者さんの姿ばかりが目に入ってしまうのですが、それぞれご家庭があり、ご家族がおられる。たとえ一人暮らしの方であっても、社会との関わりがあり、生活しておられるのです。そこに関して考えが甘かったと痛感しました。

病院にいる姿だけが、患者さんのすべてではないのです。退院させることが一番の目標になってもいけないとも思いました。その後の人生まで考えてあげること。忙しい日々の診療の中でどこまでできるかわからないけれど、医師だけでなんとかしようとするのではなく、看護師さんやMSWさんといった多職種と本当の意味で連携しながら、患者さんの人生そのものをサポートしていく必要があると思います。

わたしは今まで、疾患ごとの病態とその治療法を覚えていくことを続けてきました。適応があれば、第一選択の治療法から順に行われるべきだと思っていました。でも、治療するよりも家に帰ることを優先させる人もいます。家に帰ってから、やっぱり病院で看取ってほしいと帰ってくる人もいます。そういうことが本当にありました。

わたしが知っている世界はまだまだ狭くて、偏っているんだなぁと思います。すぐには視野が広がらなくても、年齢を重ねるにつれ徐々にいろんな価値観に触れて、それに対する自分の考えも持てる人間になっていきたいと思いました。

目の前のいのち

救命救急の実習での受け持ち患者さんは交通事故に遭った方で、毎日状態が変動しているのをみていました。夜間に偶然連続で脳卒中が運ばれてきて、応援の先生が来るまで、当直の先生がやむをえず優先順位をつけて治療に入るのも見ました。かわいい小児の命が終わるのも経験しました。

わたしがお腹すいたなと思っていたり、眠いから寝ようとベッドに入ったりしている間、必死にいのちを繋ごうとする人がいることを初めて目の当たりにしました。というか、目の前にあったのに、気づいていませんでした。

痛いと思いました。

助かるであろう患者さんを見ても、助からなかった患者さんを見ても、痛かった。余計な感情を持たずに無であろうとすればするほど、いろんなことが目に入ってわたし自身が人間であることを再認識しました。


まだ産婦人科をまわっていないので、命が生まれる瞬間を見たことはないのですが、命が終わるとされる瞬間に遠くから立ち会いました(もちろんご家族がナーバスになっておられるので、学生は離れたところで見ていました)。ひとつの人生が終わるという重さを感じました。

その一方で、二つ隣の病床では、昏睡状態の高齢男性に対して、奥さんとみられる高齢女性が一生懸命手を握ったり話しかけたりしていました。あの方はいま命をつなぐために生きておられるのだと思うと、また違う気持ちになりました。


今回、偶然にも脳死下臓器提供について考える機会が数度ありました。

臓器提供の意思があってもなくても、どちらでもいいのだと思います。友人は、家族から「絶対に提供しないでほしい」と言われているそうです。わたしは、人のために行動することがいいのはわかっているけれど、かといってそれが臓器提供なのか確信は持てず、しかし「臓器提供しない」のも違うなと思っているのです。でも、誰かが臓器提供を待ちわび、それを希望として生きておられることも確かなのですよね…。

脳死判定される患者が大人の場合、たいてい「誰かのために提供します」という方が多いようです。一方こどもの場合、ご家族が「〇〇ちゃんが生き続けていると感じたい」と思い、提供されることが多いそうです。大人とこどもでは、少し意味合いが異なるようです。

友人と話していて、確かに自分の子供が脳死かもしれないと言われたら「(臓器だけでも)どこかで生き続けていてほしい」と思うかもしれない。だが、自分が脳死状態になったとき、さらに生き続けたいと思うかと問われたら、少し違うかもしれない、と思いました。

いのちってなんだろう、と考え続けた救急科実習です。

一旦ひと息つく

本当は国試の勉強をするべきなのかもしれないけど、最近あつまれどうぶつの森を久しぶりに開いてしまい、自分の島を作り変えることにはまってしまって、机に向かえていません…。今日もお友達のお誕生日プレゼントを買いに行ったし。

でも今日はこのnoteを書いて、最近自分が経験したできごとについて振り返っているので、これもいずれ役に立つ思考の整理に繋がるはずだと思い、自分を許してあげることにします。

読んでいる方にはわかりづらいかもしれないけれど、わたしはこの1か月で大幅に成長し、考えを深め、成長できたと思っています、これからも息抜きしつつ、いろんな経験を自分のものとして吸収することをがんばります。

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