雨の日には冷えたスプーンを一カラスがいる日は、遠回りして一
※お立ち寄り時間…5分
「赤の他人」って、どうして「赤」なんだろう。
以前、何かの話の切れ端で、ポツンと思い浮かんだ。別に、黄色でも、青でもいいじゃない、と。
「赤」には、「明らかな」や「全くの」といった意味が込められており、「赤の他人」と言うのは、「明らかな他人」という意味なんだそうだ。
「白って200色あんねん」
ではないが、赤にも、紅蓮、深緋、唐紅、そして真紅など、様々な呼び名が存在する。中でも、真紅は、紅花のみで染めたものを差し、「正真正銘の赤」とされている。
明らかな他人、「赤の他人」が一緒になると、「パートナー」と呼ばれる。
「パートナー」は、「家族」という概念の中で、最小の単位だと思う。
昨今、多様性なんて窮屈な言葉に収まりきらないほどの「家族」が存在する。
夫婦
事実婚
別居婚
パートナーシップ
ステップファミリー
セカンドパートナー
托卵など。
正直、当事者や関係者が納得すれば、どんな形であれ、一緒に居ていいんじゃないか、と思う。
一方で、どうしても受け入れられない人もいるだろう。もともと「赤の他人」つまり「明らかな他人」が一緒になる訳だから、色々な弊害が生じて当たり前だ。
「育ってきた環境が違うから、好き嫌いは否めない」
夏がダメだったり
セロリが好きだったり
するのね。
この曲、好きです。
さて、家族の形は、どんな言葉にも包み込めない。きっと、家族の形は、各々の家族で作っていく、唯一無二の形なのだろう。
そんな「家族」が苦しい時もある。
喧嘩をしても、話し合いをするたびに、家族だからと、何事もなかったかのように始まる朝が、私にもあった。
「話を聞いて欲しい」
ただ、それだけだった。
「家族だから、大丈夫よ」
の一言で
綺麗に無かったことにされてしまう。
よく見れば、角や床の隙間に埃が落ちてるっていうのに。
だから、行き場を失った、不納得の感情は、いつも、ラベルのついた蓋に仕舞われていた。
そして、保持期限が過ぎると自分で処分して、お焚き上げ完了だ。
「家族、ってなんだろう?」
「血は水よりも濃いとは?」
「家族だから、好きでいなきゃダメ?」
ぐちゃぐちゃな思考で、枕を涙で濡らしたこともあった。
仲良しでなきゃいけない。
両親は敬うもの。
別に暴力を受けた訳じゃない。
何なら、人並み以上に愛情を注いでもらった。
だからこそ、かもしれない。
行き場を失った感情を、分かって欲しかった。
一度でいいから、共感して欲しかったのだ。
だけど、親だって「人間」だ。
家族である前に、「1人の人間」なのだ。
子どもの私は、親に求めすぎていた。
家族でも、相性の良し悪しがあって当たり前で、
好きも嫌いも、多種多様な形があっていい。
だから、私は、「好き」や「嫌い」に形を作ることにした。
全員、同じ「好き」じゃなくていい。
まる
さんかく
しかく
星形
直線
毎日、同じ形じゃなくていい。
たまには、直線だっていい。
最後に、形が消えてしまったら、それは、そうゆうことだと手放してしまっていい。
だって、1人の人間だし、初めは「赤の他人」の集まりにすぎないのだから。
今日が嫌いでも、明日が好きならそれでいい。
そう、家族の形は、どんな言葉にも包み込めない。
だから
一昨日も、
今日も、
明日も、
そのまた先も、
カラスが鳴く前に、いつものおうちへ。
ね、一緒に帰ろう。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?