挙げ句の果てを、転々と。

ひとのいない夜の帰り道。行きはたった5分で着く家から最寄駅の道を、もう15分も歩いている。もともと、歩くのが早いとはよく言われる。だから行きの5分はひとより結構早い。だからと言って、15分歩いてもたどり着かないのはどうかしている、と聡美は重い足を引き摺るように前に出しながら考える。

たまにこういう日があるのだ。何もかもうまく飲み込めなくて、考えなくていいことばかり頭の中に浮かんで。人目がある時はまだ意地とプライドで何とか普通の歩き方をすることができるが、周りに人がいないと体が2倍くらい重くなったような感じがして、足を前に出すのが物凄く難しくなる。こんな時聡美はいつもゲームや冒険者の物語に出てくる石化の呪いを思い出す。一瞬で全身が石になるならいいけれど、もし徐々に石になるのなら少し怖い。どこから石になっていくのかしら。思わず自分の右太ももに軽く触ると、いつも通り筋肉をあまり感じない柔い手応えが返ってくる。こんなに重いのに柔らかいままってことは、きっと内側から少しずつ石になっているに違いないわ。外側の見た目は普通のまま。中身はどんどん冷たい石になっていく。

我ながら下らないことを考えているな、と無理矢理口角を上げて少し笑う。やっとたどり着いた我が家を見ると思わず安堵のため息が漏れた。今日も帰ってくることに成功したらしい。習慣でポストの中身を全て掴み、左手に下げた小さいトートバッグにそのまま突っ込む。鍵を開けて玄関に入ると急に体の重さが増し、崩れ落ちるように玄関に座り込んだ。石化が進んでいるのかしら。浅い呼吸を落ち着けようと1日持ち歩いたお気に入りのタンブラーから、温くなってしまった水を一口飲む。必死の思いで鍵をかけると、今度こそ指先一つも動かせなくなって、そのまま玄関先で丸くなり目を閉じた。

イヤホンから流れてくる音楽が特にお気に入りの1曲になったのをキッカケに意識が少しずつクリアになる。腕時計を見ると家に着いてから20分程度が経っていた。呼吸はできる。頭痛も引いた。あの泥水に浸かっていたような気分は遠ざかった。あとは体の重みが取れるのを待つだけだ。手持ち無沙汰になりスマホを弄ろうと思ってトートバッグをひっくり返すと、ポストの中身が散らばった。どうでもいい葉書たちに混ざって、不在票が入っているのを見つけて思わず身体を起こす。そうだ、楽しみにしていたグッズの発送メールが来ていたんだ!聡美はスマホのスケジュールを開き、明日が午後休なのを確認すると思わず小さくガッツポーズを取った。不在票に書かれた再配達受付サイトから明日の16時〜18時の再配達依頼をおこなうと、楽しみな気持ちが沸々と湧いてくる。可愛いロングTシャツと小さなぬいぐるみ。特典のポストカードも楽しみだなぁ。顔に受ける冷蔵庫からの冷気にハッとする。聡美は気がつくとリビングに移動していた自分に泣きそうになった。ほら、まただ。もうお終いだと思っても全然終わらない。

幸せと悲しみは、彼と過ごしたあの2年半の間にだけ存在している。今はもう、何かを見て、何かを食べて、何かに触れて、あの時の記憶や感情に結びついた時だけ、幸せと悲しみが動く。彼を失って、でも彼と作り上げていたたった一つの宝物のような作品はきちんと完成させて。あの瞬間、聡美ははっきりと自分の人生の結末を見た。ここがラストシーンだ、となんの疑いもなく確信したし、その確信は今でも1mmも揺るがない。終わり損ねた自分は、あとは終わりが来るのを待つだけで他には何もない。そう思って10年近くの日々が経ち、聡美は長々と続くエンドロールに飽き飽きする自分と、エンドロールに流れてくるちょっとしたことに楽しみや苛立ちを感じている自分がいることを受け入れざるを得なかった。幸せは思い出の中だけに。悲しみはあの日の記憶と共に常に。その2つに変化が全く起こらない日々はまるでもう終わった世界のようで。でもその終わった世界で時々ちょっと楽しいことや結構むかつくことがあるのも事実で。エンドロールを見ているだけのつもりだったのに、自分の物語は気がつくとコロコロと転がるように進んでいる部分があって。聡美が彼と過ごして紡いだ物語と比べると、圧倒的にペラペラで何も起こらなくてつまらない、終わりの先の続きのような物語。

つまらない物語だからこそ、自分だけで進めていかなきゃいけないのかもしれない。

聡美は今日も無事に帰り着いてしまった自分のために、温かいココアを淹れることにした。つまらない惰性で続く物語。今日は色々うまくいかなかったし、明日もきっと嫌なことの方が多いと思うけど、少なくとも明日は楽しみなグッズが届くんだ。結末を失った物語を歩く自分。せめて、道端にある素敵なものや楽しみを取りこぼさずに進んでいけるように顔だけは上げていこう。聡美はココアの香りと大好きな曲だけに集中できるよう目を閉じた。

♬意地を張ってる場合じゃない 心の鍵を開けて 今を 受け入れていきたいよ

♬何度だってはじめていこう 転んだぶん自由になれる

♬結末が見えなくても 起承転々 道は続いていく

♬どう生きても 主役はそう自分だよ

起承転々 / 松尾太陽


起承転々。初めて聴いた時、ああこれだ、と思った。ずっと感じていた自分への違和感。起承転結を迎えたつもりだったけど、転々と動かざるを得ないんだ。転々と続いてしまうことを受け入れるのは、悲しくて辛くて。でも松尾太陽さんの歌声の優しさと頼もしさ、そしてこの曲が大好きなことに救われて、この歌を聴いていれば転々と続くことを受け入れて、それならせめて明るい方へ、と思うことができた。音楽のちからって本当にすごい。

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