歌声と食べ物

「歌で生きていける気がする」

三咲はここ数日を振り返りながら冷静に結論づけた結果を思わず口にした。
「ミュージシャンになるの?」
手元のスマートフォンから顔をあげて質問してきた綾人の頭を軽く撫でながら三咲は首を横に振った。綾人のこういうシンプルで素早い思考がとても好ましい、と三咲は思っている。小さな病院の受付業務で日々忙しく過ごしている三咲が、歌で生きていける、と急に言いだしたら、普通は「なにそれ?」とか「どういうこと?」とかそういう空白の多い質問をしてくるものではないだろうか。それをまあ、ミュージシャンになるの?だなんて。考えること、それを言葉にすること。そこを無意識にできる綾人だから一緒にいられるのだ、と三咲は常々周囲に自慢している。
「そうじゃなくてね、好きな歌さえ聴いていれば生きていける気がするって話」
食べ物を食べる、みたいに、歌を聴くの。三咲がその言葉を出す前に、綾人はジッとこちらを見ながら頷いた。「たしかに、三咲は音楽は良く聴くけど、食べ物はあまり食べないもんね」
三咲は思わず息を呑む。言葉が伝わる相手だと、言葉に出す前に伝わることもあるのね。たくさんの言葉を重ね、それでも何も伝わらない日々。その日々に削り取られるように言葉数が減っていった頃の自分に教えてあげたい。言葉の重さがほとんど一致するひととの出会いで、世界は変わるんだよ、と。だからこそ、三咲は慌てて綾人の手に少しだけ触れた。
「ごめん。もちろん冗談。」
綾人は呆れたように頷きながら、三咲の手の上にさらに自分の手を重ねてきた。
「こういうゲーム、小さい時にやらなかった?」
綾人の目線に促され、三咲が右手を綾人の左手の上にさらに重ねると、途端に右手にピシッと軽い衝撃を感じた。
「もうちょっとフェイントかけたり駆け引きする時間を楽しむゲームじゃなかったっけ?」
若干の苛立ちを感じて三咲がそう言うと、綾人は、じゃあもう一度、と言いながらテーブルの上に右手を置いた。三咲の左手、綾人の左手、三咲の右手。重なった4つの掌をぼんやりと見つめる綾人の表情は笑顔で固まっていて、三咲はヒヤリとする。
「綾人」
ちゃんと名前を呼んで声をかけようね。ふたりで決めた唯一のルール。足音ひとつ、目の動きひとつでほとんどのことがわかってしまう自分達だから。賢くて臆病で言葉が似てる者同士。言葉にしないで全部済んでしまうかもしれないけど、言葉が減るときっとお互いの思い込みが増えて、私たち自身がどんどん薄まってしまうと思うから。居心地の良い沈黙に甘えすぎず、名前を呼んで、言葉を使おう。
「三咲はさ、今日は何を食べたい?」
固まった笑顔のままの硬い声。左手の手のひらに感じる綾人の手の甲の堅さ、左手の手の甲に伝わる綾人の掌の重さ。それらをほぐしてあげたいのに、食べ物のイメージがひとつも浮かんでこないことに三咲は泣きそうになる。泣かないために思わず好きな曲を口ずさみそうになり、グッと我慢する。歌で生きていける気がしているけれど、綾人の悲しい気持ちを無視して生きていくことはできない。我慢した歌声が涙になって視界が歪む。その瞬間、ふっと綾人が息を吐いたのがわかった。
「ごめん、意地悪なこと聞いた。」
綾人は笑顔を引っ込めて真っ直ぐに三咲を見つめながら、餃子でもいいかな、と言った。
「ぎょーざ」
ほとんど無意識に復唱した三咲の様子を見て、綾人は、今度は声を出して顔をくしゃくしゃにして笑った。

「何その、初めて餃子って言葉使ったみたいな言い方は。」
綾人の笑顔を伺いながら、三咲はそのままさらに数回、ぎょーざぎょーざと声に出し、そのうち自分でもその妙に平坦な発音が段々とおかしくなってきたのか、綾人に釣られるように笑いだした。溢れそうだった涙は三咲の眼を潤しただけに留まり、いつもよりキラキラと輝く瞳を見て、綾人はやっと安心を覚えた。歌で生きていける気がする。綾人は、そう言った時の三咲の、心の底から安堵したような表情を思い返した。あの時、すぐに思いついた返答は2つ。綾人は先ほど選択しなかった方の言葉をゆっくりと口に出した。
「まだ人間の肉体は音楽から直接栄養を摂れるほどには進化していないから、サプリメントくらいはちゃんと飲まないとダメだけどね」
笑っていた三咲が、綾人の言葉で凍りついたように固まるのを見て、綾人はまだ三咲の手と重ねていた自分の右手を素早く引き抜き三咲の右手を軽く叩いた。
「隙あり、だな」
なんで、と呟いたきり言葉にならない様子の三咲から離した手の代わりに、しっかりとその視線を捕まえてから綾人は説明する。
「三咲は、1食食べるよりも、好きな音楽を1曲聴いた後の方がよっぽどエネルギーに満ちてるように見える」
「だからかな、職場を遠くにして通勤時間を長くしてからの方が元気だよね」
「でもさ動きや感情は元気でも、三咲は物理的には少しずつ小さくなってきてる感じがするよ。痩せているんじゃなくて縮んでる感じだ」
「だからさ、三咲は歌で生きていけると思ってるかもしれないけど、まだもう少し待って欲しい」
「笑い話で済むのならと思って思わず、ミュージシャンにでもなるの、なんて陽気な方の言葉に逃げてしまったけど、今ちゃんと話しておいた方がいいと、三咲の手に触れているうちに思ったんだ」
「三咲は歌で生きていけるよ。」
でもさ、と言った綾人の、言葉にならない言葉を今度は三咲が拾い上げる。

「綾人と食べるご飯は好き。冷たいうどんも、しゃぶしゃぶもハンバーガーもオニオンフライも、ケーキもパイナップルも焼肉もお蕎麦も、お寿司もカップラーメンも全部好き」
「俺も、三咲のとなりで三咲の好きな歌を一緒に聴くのが好きだよ」
言いたいこと、伝わってること。伝わっていると思ってなかったこと。言えない言葉。それでもお互いに言葉を尽くして想い合えること。

「冷凍餃子にしようかと思ってたけど、せっかくだから手作り餃子にするか。ニンニク抜きにして生姜たっぷりで」
「じゃあ私、餃子の皮作る。具はあやがいい感じにして」
「いやなんで皮から作るつもりなんすか!皮はスーパーで買うから」
「作ってみたい」「食べれるの何時だよ」「私お腹空かないもん」「俺は空いてるの」「じゃあ冷凍餃子にする?」「いやもう包む手になってるから冷凍は無理」「一緒に皮から作ろうよ」「え?作ってくれるんじゃないの?」「何聴こうかなぁ」「え?このタイミングで無視するのまじでか」「いいから素敵な歌聴きながらぎょーざの皮の作り方一緒に調べよう」「そこからっすか」

三咲は音楽プライヤーを操作して、今いちばん一緒に聴きたい歌を、小さいボリュームでそっと流した。

♬伸ばした手が届かずとも
 踏み出す一歩からはじめる今日を
 一つまた一つ確かな光を
 抱きしめている 抱きしめていく

anemone / 松尾太陽

今とこれまでとこれからを繋ぐ個人的な気持ちを、時間はかかったけれど物語にしてみました。
ことばの日、に寄せて。





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