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いつも、全部おいしかった。【chapter80】





ふふっと、甘さだけではない笑みでソノコは目を細める。テーブルの水溜まりを拭き取り、

「ケーキどうぞ。入刀する前にフォークを刺して夢を叶えてください、最高においしいわよ、きっと」

最高においしい。少し食べたらカットしてもらい、ひと切れをタカシにもあげよう。

「それとね、リョウくん。多分だけどマタニティブルーって、命を身籠ってる人がなるものだと思うわよ?私はおかげさまでブルーも悪阻も無縁だけど。だからリョウくん、しっかりしてくださいね。それと女の子みたいよ。リョウくん兄弟に憧れてたと思うけど、女の子みたい。お雛様買わないとね、お雛様って夜見るとちょっと怖いわよね。ひなあられ、あれって緑色は多分抹茶味よね、私大好きなの。盗み食いしてよく母に叱られたわ。母は強しとかつまらないこと言わないでね。私は前からずっと強いのよ、転んでもただでは起きない性分なの。ごめんなさい!うっかりしてたわ、リョウくんお誕生日おめでとう」

ケーキで腹を満たし、ひとしきりソノコの腹をなで首筋に唇を当て眠るリョウの、温かな息が心地いいとソノコは思う。

目を閉じる、時計の針の音だけが響く寝室、眠りに落ちる前。ソノコは思い出す。

夏の終わり、身体の中心まで射ぬいた残暑の強い日射し、涙の代わりの通り雨、線香の匂い、タカシの葬式。

式後、帰ろうと歩き始めた背中から「ソノコ」と声をかけられ、振り返った。

「先輩」

見上げた、背の高い男の目、拭わない涙があごから落ちた。かつてタカシが、

「女に節操がなくてヒヤヒヤするんだけど、どうしても憎めなくて。思うに、すごくいいやつなんだ実は」

笑って話していた。

無言でソノコが差し出したハンカチ。男の目から落ちた涙が、喪服の艶やかな黒を濡らした。「サンキュ」と男は遠慮を見せずソノコからハンカチを受け取ると、涙を拭いた。

「お前ら別れたんだって?」

頬が渇くと遠慮を見せつつたずねる。ソノコは男から目を反らし窓の外、夏の名残を見つめ頷く。

この前会ったんだよ、本屋で偶然。声かけたらなんかぼんやりした感じで、お前なんか痩せてない?夏バテ?って聞いたら「だな」って笑った。笑って「ソノコと別れた」って。

「別れたら連絡してって言われてたの覚えてるけど、節操ないお前にソノコは無理だから、連絡しなかった、悪いな」ってクソ意地の悪い顔して俺の肩叩いてさ。何でよ?上手くいってたんじゃねえの?って聞いたら、

「ソノコの幸せを願うのと同じくらい幸せになって欲しい人がいる」

「は?なにそれ。二股?浮気か?まじで?らしくないな」

「まあな。ほら俺、誠実と思い遣りの男だから」

「は?お前大丈夫か?言動と行動が解離してるぞ?」

って突っ込んだら、清々しい顔して笑ってさ、

「これが俺の覚悟だから」

許してくれるかなって笑った。誰に?ソノコ?誰に許されたいんだよって聞いたら、

「アラタ。お前、算数のテストいつも百点とってたよね、優秀だよね。まあでもさ、白でも赤でも花は美しいよね」

ってさ、なに言ってんのか俺、意味わかんなくて。全くわからなくてさ。



ノーワン。アリシア・キーズが歌っている。

あの人を想う気持ちを誰も知るはずがない。自分さえも気づかずにいたのだ、自分の中にこれほどの気持ちがあったことを。誰も邪魔できないこの気持ちは俺だけのものだ。

ノーワン、ノーワン、ノーワン。

リョウより、ソノコより歴史の長い幼なじみ。お調子者で節操がなくクレバーで情に厚い、なんだかんだ憎めないアラタの疑心と心配で輝く瞳、その黒目に写る自分。

本屋のバックグラウンド、アリシア・キーズの声が時々掠れる女の声と重なる。感情が昂ると掠れ、聞き取りづらくなる声はこの上なく愛しく、またタカシにとって好都合でもあった。温かい吐息を耳で受け止める口実になったから。寄せた耳を甘く噛んだ人、目の際のほくろ。

最後となった夜は、夕方から雨にだった。

雨降りが好きな人だった。けれど、夜の雨は乱視のせいで視界が悪くなるから、運転しづらいと言っていたから、さよならもまたねもなく暗い顔色で部屋を出ていったから、一番最初に思い浮かんだのは心配だった。安全に運転ができているか、無事に自宅についただろうか、雨の夜の中さぞかし心細いのではないか、ソノコはキャラクターに似合わず怖がり屋だから。出会ったことを後悔していると、二人を出会わせるべきではなかったと、二度と会わないと、愛してると憎しみがグラデーションになった黒い感情は今さらカッコつけることもない本音だと思う。それでも、ソノコがいなくなった部屋で窓の外、降る雨を見たとき、一番最初に無意識に浮かだ感情は「無事に帰っただろうか」とソノコを案じる心配だった。偽りようがない、無意識の透明な感情だった。結局ソノコの全部を好きで仕方がないのだ。


幼なじみの瞳と、ノーワンと歌う声が、手の施しようがないタカシの傷を優しく労り慰め、そしてそっと背中を押す。あの夜、伝えそびれた言葉をソノコに。タカシは車に置いてきた携帯電話を思い浮かべる。

「なに言ってんの?お前飲んでんの?車だろ?」

って聞いたら、飲んでないよ大丈夫。ありがとう。って、あいつのいつものありがとうだった。まぁとにかく近々に飲もうって別れた、じゃあまたなって別れた。気をつけろよ。って

「アラタ先輩」

ソノコは男を見上げる。私はどうも背の高い男に縁がある。

「どうもありがとう。タカシくんに最後にまたねって、気をつけてって声をかけてくださって。私は言わなかった。でも、きっと先輩の言葉が、タカシくんの御守りになったはず。だから、ありがとうございます」

タカシからの、最後のライン。

虫の知らせはなかった、一グラムも。

そのラインの支離滅裂さに違和感を感じとらなかったのかと問われ、感じなかったと答えれば嘘になる。けれど事実、支離滅裂な気持ちを抱えているのだろうし、それは自分もまたそうであり、だから違和感は〇、五グラムしか抱かなかった。

その時の自分を見ているようだと共鳴し、タカシの本当の言葉にむしろ安心感を抱いた。そのラインのには支離滅裂さを覆い尽くす圧倒的な愛が確かに綴られていた。なによりタカシの前を向き生きる力を信じた。自分の都合に寄せた信心だとしても、タカシを疑う気持ちはなかった。

あの夜の自分をソノコは一生責め続けるとしても、それでも今、あの夜に戻るならば支離滅裂な愛のラインを読み、やはり、タカシを信じるのだと思う。


深く吐いたソノコのため息に、

「腹、苦しい?眠れない?」

小さく寝言を呟く。

「眠れるわ、苦しくない」

リョウの手を握り、ソノコは目を閉じる。

タカシから、最後のライン。

ソノコ。すだちの素麺おいしかった。

質問をするときのような語尾上がりの、低く甘い声が名前を呼ぶ。


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