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走馬灯、ベビーピンク。【chapter 23】

準備中

そうかと思うと、機嫌が悪い日は返事さえしない。何回か「お母さん」て呼んで「なに」って一言、たった一言なんだけど、その言葉とため息の間とか、声の低さとか「なに」の前に吐く息の重さとかで「あー、今日は機嫌が悪いんだな」って分かるんだ。分かるけど、これ以上しつこくしない方が良いって、そこまで分かってるんだけど、何故か不思議としつこく、まとわりつきたい気持ちが腹の底から沸き上がるんだよ。甘えなのかもしれない、でも甘えだけじゃない。きっと怒りだね。「大人のくせに、お母さんのくせに」って苛つきが止まらなくなる。甘えと怒りの間で子供の次の行動の選択肢なんて、無いに等しいよ。諦めなんてまだ知らないんだから。力業でまとわりついて、こっちを向かせる、自分を見て欲しい。他愛のない学校の出来事を話すんだよ。「へー」って温度のない、上の空ってこの事かみたいなさ、「へー」が続いて。で、算数のテストで九〇点だった、誰々は百点だったって話をする。

「誰が?誰が百点とったの?」

って、包丁を置いて俺の目を見る。キラキラした目でさ。希望とかじゃない、でも妙にキラキラした目なんだ。

「アラタ。算数できるから」

って。

「アラタくん、やっぱり優秀なのね」

ってうっとりした目をしてさ。

アラタの百点にうっとりしてる母に、突然聞きたくなった、確認だ。確認したくなった。クラスの女子が「ママがリュウザンした」。話してるのを聞いた。母は俺を産む前に一度流産してる。そのあとに産まれたのが俺なんだ。アラタの出来の良さにうっとりしてる母に確認したくなった。

「でもさ、俺が生まれて良かったでしょ?」

って。

算数のテストと何にも関係ない、九〇点も百点も全く関係ない。でも聞きたくなった。母は俺から目をそらした。「なにそれ」って、面倒くさそうにため息をついて包丁を握って、お父さんが。って

「良かったんじゃない?お父さんが、子供が欲しいって言ったのよ。男の子が欲しいって。お父さんがとても喜んでくれたから、だから良かったんじゃない?そんなこと、どうでもいいわ」

って。夕暮れで、母から甘い匂いはしなかった。

俺はその時の自分が着ていた服の色を覚えてる。母の向こうにある窓から見えた空の色を覚えてる。鍋の中の何かが煮える音を覚えている。

しばらく野菜を切ってる母の包丁の動きを見てた。野菜がどんどん刻まれてく、そんなに細かく切ってなにを作るんだろうって、そんなに細かくする必要ある?って、プロセッサーつかわないの?どうでもいい、って俺が知ってるどうでもいいと同じ意味なのかな?産まれて良かったでしょ?どうでもいい。とんとんとんとんて。

無意識に「ごめんなさい」って謝ってた。

夜の闇が深まる、見つめている天井の照明の照度が下がる。暗さが濃くなる。大雨が降りだす前の灰色の雲が水色の空を覆う。身体が冷える、鳥肌がたつ、キーなのかピーなのかまたはジーなのかそれとも、どうでもいいなのか、とんとんとんとん、なのか、細く高い音の、耳鳴りがする。天井がゆっくりと、時計回りに回る。

いつかの、貧相で不衛生で原色だらけの、ホテルのベッドをタカシは思い出す。腰の上にのせた女の、その頭上の、回る天井を見つめ、タカシの身体はみるみる冷え、汗が吹き出し、全性欲が萎えるのを感じた。腰の上の女はスクワットを止め、泥のように重いため息を吐くと同情のような眼光でタカシを見下ろし、腰から降りた。

父親とはほとんど交流がないことを伝えると、女が、

「そうなの?親は大切にしないとダメじゃない?亡くなったママも心配するよ?親孝行したいときに親はなしって言うし。うち、すっごく仲いいの。四人で買い物とかいまだに行くし。今度一緒にいく?弟はバカだけど。タカシの弟さんにも会わせて」

吸っても吸っても苦しい、薄い酸素が足りない。

心の淵から覗く、底の炎はじりじりと燃えている。

ベッドが軋み微かに揺れる。

薄い酸素の中を真っ直ぐ自分に向かう視線を感じ、タカシは微かに首を捩る、ソノコの視線。

タカシの肩にソノコが手を置く、手の横に唇を添える。肩だけは温かいと思う。

植木鉢で花を育てるみたいに子供を育て、自分の気分とタイミングで水をやったりやらなかったり、とにかく花を咲かせろと。母の中には揺るがない理想の花があった。俺が白く咲きたいと望んでも母はかたくなに赤だと。赤以外は認めない。と。赤以外興味がない。母の意思はそもそも父の意思だ。

この、震える声は誰の声だ?

「昔話。もう途中でやめてもいいし、続けてもいいし、どちらでも、自由でいいのよ。私、寝ちゃったらごめんね」

肩から、のんびりした声が聞こえる。甘く低い声。震える声。

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