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生きていく。【chapter32】


何も話さず、ベッドに並んで座りぼんやりと外を眺めた。ベランダのシーツを眺め、空を眺め、エアコンの音を聞いた。

ソノコは横から人肌の気配を感じ、空からリョウへ視線を移す。

リョウの唇がソノコの唇と初めて出会う。冷たい唇、とソノコは思った。エアコンの風で冷えたのだろうか。右手をリョウのほほに添えると、やはり冷たかった。

初めて出逢った日を思い出す。緑がかった美しい瞳を見あげ差し出された右手と「握手」を交わした。そのとき隣に立っていたタカシの兄らしい穏やかな笑顔が、リョウと出逢えたことよりソノコは嬉しかった。それは本当の気持ちだった。一点の濁りもなく本当だった。初めてリョウの唇に、ほほに触れ、過去の記憶がソノコを襲う。

タカシの部屋、三人で過ごしていたいつかの雨の休日。

ソノコが作った昼食を三人で食べたあと、タカシはダイニングテーブルで仕事をし、リョウはソファで寝転んでいた。ソノコはぼんやりと窓に張りつき雨を眺め、時々二人を振り返った。

デートとは言わないがデートであると思われるリョウは、ソファの上で限界まで伸びをすると腕時計を確認し立ち上がる。瞬間微かな立ちくらみを感じ視界がぼやけ、目を閉じる。頭痛がする。そこに心臓があるのかと思うほどの鈍痛、耳の上で規則的に脈を打つ。中途半端な昼寝と止まない雨のせいだと思う。止まない苛つきのせいだと思う。柔らかいものに触れたいと思う、柔らかい首筋や胸に顔を埋め、唇を重ね、身体の全てに唇を当て、その身体の中に、一番奥まで入りたい。胸をかきむしりたくなるほどの愛してるを、言葉にし、喉がちぎれるほど伝えたい。これから会う女の顔を思い浮かべる。側頭部の鼓動は止まない。リョウは目を開き、窓辺のソノコを後ろから見つめる。

「お前、黒が似合うな」

呟く。

リョウの低い声は明瞭にソノコの耳にも届いたが、ソノコは自分対して発せられた言葉とは、一ミリも思わなかった。何故ならそれまでの、短く長いタカシとの交際期間にリョウから褒め言葉を受けたことが無かったから。ただ一度、出逢った日にきれいな名前だと褒められた。それだけだったから。雨を見つめたままソノコは数秒思案した、タカシが今日着ているシャツはチェック柄であることと、自分が着ているワンピースが黒であること。ソノコはリョウに近づくと、

「ありがとう!」

大袈裟なリアクションでふざけ、誤魔化し冷静を装った。リョウの腕を掴む。歪んだ愛の狂気をはらむネトス。

ふわりと動いた空気に、ソノコの首筋の香水が混ざる、甘くない鋭い香りがリョウの鼻から脳天を貫く。リョウは、腕を掴んでいるソノコを真顔で見つめる。潔く真摯な声色で、真っ直ぐ通る声音で呟く。リョウの中で時をかけて温められたたまご。その中のパトスが理性と冷静の殻に、一筋のヒビを入れる。

「キスしていい?キスがだめならセックスでもいい」

ソノコにはもちろん、タカシの耳にも届いたその声は、雨の音しかない静かな部屋に淀みなく響いた。ソノコは、笑っていない笑顔をつくり、その腕を離すと、ダイニングテーブルのタカシを見た。タカシは黙ったまま、パソコンから目を離さなかった。

タカシが「リョウくん面白くないよ。調子にのるんじゃない」とリョウを笑って諭すことはなく、リョウは「冗談だろ」とタカシを茶化さなかった。そのとき、二人は目を合わせなかった。リョウが無言で部屋を出ていき、タカシは無言のまま見送らなかった。その日の夜をソノコははっきりと覚えていない。タカシと常のように抱き合った気もするし、誘いをやんわり断られたような気もする。もしくは、強引に誘われ強引に抱き合った気もするが、定かではない。

ソノコの過去の引き出しが、次々と開く。

いつかの過日、信号待ちの助手席から運転席のタカシ越しに窓の外、花屋が見えた。店先に色とりどりの花。ソノコはタカシの二の腕に手を置き話しかける。

「きれいよ。でも男の人はお花なんて興味ないわね」

「そんなことないよ」

「そう。好き?」

「好きだよ。バラ、チューリップ、タンポポ、ガーベラ、オキナグサ」

タカシは目にだけ笑みのない笑顔でソノコを見つめる。白髪が増えた短髪、再会した頃より随分削げた知的なアゴの線、知らない他人の男のような視線。

「沢山知ってるのね、女の子にプレゼントしたことがあるの?」

「ないよ。花をプレゼントしたいなんて思った女性は今まで一人もいない」

リョウくんはプレゼントしたことがあるだろうね。

全ての笑みが消えた表情のタカシからソノコは視線を外し、前を向いた。

ソノコの知識にはなかったオキナグサを、仕事の休憩中何気なく携帯で調べた。うつ向いて咲くオキナグサの写真と生息地、育て方、名前の由来そして花言葉。 ソノコは鳥肌のたつ腕をさすり、タカシの冷たい視線を思い出す。オキナグサを見つめ思う。私が全てを狂わせた。

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