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シー・ユー・アゲイン【chapter49】*

(ケーキ買って帰らないと)

リョウは、腕時計で時間を確認すると(だいぶ増えたな。)労りの気持ちを込め鈍く光る銀色の傷を見つめる。そっと腕時計を指で撫でた。

「ねえ。大丈夫?聞いてるの?」

向かいに座る女に注意され「ごめん」と慌てて指を腕時計からコーヒーカップに移す。

とても疲れた。

まさか「大丈夫?」と問う女にそう答えるわけにもいかずリョウは心の中、ひとり呟く。

女と二人で向かい合う夕食時の飲食店は、家族連れや若い客のグループ、恋人のような二人組でほぼ満席に近い。リョウの座るテーブルの横を店員が足早に行き来し、何度も忙しない風を起こす。

他の席から聞こえてくる手を叩いて笑う声や、天井から降りてくる歌詞のない音楽。食器同士がぶつかる尖った高音。照明の明るさ。目の前の女の理知的で自立心を感じる笑顔。リョウはその全てに疲れると感じる。朝、起きてから夜眠るまで、時には夢の中でさえも疲れる。生きているだけで疲れるのだと思う。

体は疲れているのに寝つきが悪く、睡眠の質も悪い。仕事に支障をきたすのだから眠らなければ、と思うとますます目が冴え思考が澄みきってしまう。枕元の置時計の音が耳につき鼓動が早まる。度重なる寝返りの末、昨夜は電池を抜いた。枕に頭を沈め目を閉じた。閉じてすぐまた目を開き動きを止めた時計を見つめる。そして、電池を戻した。繋がりが完全に消えた今、その動く針の確かな音だけが繋がりのような気がした。それをくれた人の鼓動のような気がした。

それにしても。

目の前の女の話はどうもさっきからずっと同じところで逡々し、幾度と繰り返されているように思えて仕方ない。しかし以前に

「お前の話は的を得ないし、堂々巡りも甚だしい」

と、ほんの少しやんわり指摘しただけで

「あのね、それが女なの。まるで初めて聞くみたいに黙って聞いてあげるのが男ってものでしょ?リョウくん、タカシくんを見習ったら」

と刺さりそうに切れ長の目でにらみつけられ、叱られたことを思い出す。

「わかったよ、悪かった」

と謝っても

「その腹話術みたいな謝りかたやめて!謝るときは相手の目を見てはっきりと、心を込めてするものよ!それにねリョウくん、」

としばらくお説教は続いた。「よく動く口だ」と、リョウは心を込めてソノコの唇を見つめ続けた。何も塗っていないのか?乾燥してるな、また同じこと言ってる、柔らかそうだ、キスしたい、乾燥を潤してやりたい、それにしても眠くなる声だ、と唇に力を込めアクビを噛み殺した。今、アクビなんてしたものならお説教が延長されてしまう、と思った。まあでも、それも悪くない。

リョウは目の前の女の話に耳を向け、とても新鮮な相槌をうつ。女の目を真っ直ぐ、心を込めて見つめる。

ソノコの声が聞きたい。

ストン。と突然心の底に落下した、なんの装飾もされていない気持ちは心を一瞬で満杯にする。

「このあとどうする?」

グルグルと目が回り、耳が疲れる話をひたすら聞いていると突然女から問われ、リョウはかすかに動揺する。このあとのことに動揺するのではなく全く何も考えていない自分の虚無に動揺してしまう。目の前の女のことを何も考えていないのだ。食事に誘われ断る理由を考えることさえ疲れた。だから会うことにしただけの話で、何も、何ひとつ考えていないのだ。何も。気をつけていないと「そういえば名前なんだっけ」とうっかり聞いてしまいそうになる。

まずいな。と最近毎日思う。

「リョウくん」

このあとどうする?の問に、一人になりたいとは答えられず、察してくれ。という気持ちを込め目の前の女の目を見つめていた時、テーブルの上に置いた携帯電話が震えた。病院からの呼び出しかと慌てて席を立ち携帯を裏返すと、もう二度と見ることはないと思っていた名前が表示されていた。

左耳に携帯を当てる。

満杯の気持ちが溢れ心が空っぽになる。なにもないのだと思う。気持ちを伝える言葉がひとつもない。


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