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【創作大賞2024応募作 恋愛小説部門】 壷中磔刑(改訂版) 16章、17章、18章              

      
      

         16


 五月も四週間が過ぎようとしている日、六畳のアトリエに鼻をつくフィキサチーフの霧が舞った。予定した作品はほぼ完成し、すでに手を入れる必要のないものからムラのできぬよう注意しつつ定着液の膜を張るのである。
 しかし、勇吉は一服というわけにはゆかない。そう。昼過ぎからはすぐにも、『烏有の扉』を抜けるための訓練が待ちかまえているのだ。――あと三日よ、三日。香夜子の、ほとんど胃痛を堪えるような声。疲労した身に鞭打つ、理不尽な号令のようであった。

 早めの夕食を終え、食休みもそこそこに訓練はなおも続く。壁に止められたケント紙に向かうと、勇吉は毎度のことのように香夜子と手を繋ぎ、目の焦点をずらし、あれは開かれた扉だとこころに念ずるのである。すでにして何十回繰り返しているだろうか。
 ……輪郭がぼやけ、ケント紙の白が滲み始める……いくら反復してもこれが限界のようであった。もう、うんざりだ。とたん、フィキサチーフの甘いかおりが鼻をつく。頭が軽くなるような安堵のかおり。肩の力が抜け、眠気を伴った虚脱感が出し抜けに襲ってくるようであった。
 次の瞬間、滲んだ白い色が無数の粒子に分裂すると見る間に、顕微鏡の中のバクテリアさながらに蠢き始め、少しずつ霞のような膨らみを持ってくる。初めてのことであった。しめた。口には出さずとも、香夜子にもことの次第が通じたようである。
 二人は、ゆっくりと立ち籠めた霞に向かって歩を進める。じきに、霞は紙の向こう側に流れ込み、そこに吸い込まれそうな、はっきりとした奥行きを作ってゆく。入っていける。確信であった。……二歩、三歩……ふわっとからだが浮き上がる……四歩、五歩……振り返ってはいけないのだ、振り返って

 ……待テヨ、待テ。全テガ後ロ向キノ絵ダケデ、信ジテイル程ノ効果ガ出セルダロウカ。単ナル思イ込ミデハナイダロウカ。ソレニ、花男ノ連作ノ少女マデ、殊更後ロヲ向カセタハ、間違イダッタカモ知レナイ……

 突然、『烏有の扉』の奥行きが、フィルムの切れた映画のように消えた。つい目の前、壁に止められたケント紙が入口とは裏腹の、いっそ行き止まりの標識のように白々しく照った。
「何やってるのよ! もう少し、もう少しだったのに!」
 香夜子が目と目の間から飛び出すみたいな癇癪を起こし、勇吉の手を強く引っ張るのに、
「ごめん……でも、ようやくコツが判ったよ」
「なら早く、もう一度」
 せっつく香夜子から視線を外し、
「ちょっと一服させてくれ」
 つい煙草を取りにいったが、あいにく切れている。舌打ちする勇吉に、
「わたし、買ってくるから」
「いいよ。久しぶりに外の空気も吸いたいし……」
 苛立つ香夜子を制し、勇吉は一人部屋を出た。徹夜続きに心身とも困憊の、集中力強制からはしばし開放されたかったのである。

 階段を降りると、瞑想爺が頭を抱え、啜り泣きながら呟いている。
「ああ、神様が腐ってゆく。神様が腐ってゆく……」
 すぐ近くのテレビアンテナに止まった鴉が、幽かな残照に照る空を背景に啼いている。嗚呼、嗚呼。ほとんど、瞑想爺をからかうのふぜいであった。
       
       

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 煙草を近くのコンビニで贖いアパートに戻ると、随分と遠くから瞑想爺の折檻でもされているような悲鳴が聞こえた。
 歩度早めれば、瞑想爺は両手に椅子を持ち上げ、気の触れたチンパンジーさながらに暴れ回り、これを制止しようとかの黒シャツの一人が手を焼いているけしきである。いずれにしても、瞑想爺の暴れ振りは尋常ではない。あたかも、こどもを守る母性の、命懸けの闘いにも似た胸を打つ痛ましさがあった。勇吉はいっそ気圧され、つい近くの電柱に身を潜めた。
 じきにハルさんが、もう一人の黒シャツを引っ張るようにして階段に現れ、
「あんたも手伝ってよ。力、あるんでしょ」
 否応を言わせぬ口調に、当の黒シャツも暴れる瞑想爺を宥めるのに協力せざるを得ぬけはいであった。
 ――何が天罰だ。脳梅毒じゃねぇのか。この耄碌ジジイめ。飛び交う悪態から察するに、どうやら瞑想爺が、黒シャツにやくたいも無い言いがかりをつけたようである。
 揉み合う三人を尻目に勇吉が慌てて階段を駆け上がろうとした時、半ば二人の黒シャツに組み伏されつつあった瞑想爺と目が合った。その醜態とは掛け違って、恐ろしいまでに冷徹な、いっそ厳粛とも言える眸が幽かに輝いたようであった。

「ぼくだ……」
 扉をノックすると、
「開いてるわ」
「不用心じゃないか」
 言いつつ中に入り、すぐに錠を下ろした。
 明かりが消されてあった。瞑想爺の喚き声は、相変わらず続いている。部屋の隅に、やけに荒っぽく床が延べられ、そこに香夜子が毛布にくるまって横たわっている。
「隣は留守よ」
 香夜子はそう言うと、素早く毛布の角を斜めに剥いで勇吉を誘った。スリップ一枚の艶姿であった。
「わたしを……本当の王妃にして」
 染み入るよう呟いたのが、そっと瞼を落とす。ふと、瞑想爺の目の輝きが思い出された。すべてを浄化してくれる、無言の祈りのようであった。勇吉はジーンズを脱ぐのも忘れて、香夜子の隣にからだを滑り込ませた。そう。監視されていないという、このひと時の自由。唇はおのずと重なり、勇吉の指先は香夜子の頬を伝い、首筋をへて、スリップの肩ひもをすみやかに二の腕に落とす。大胆な誘い方をした割にからだを緊張に強ばらせる香夜子を前に、勇吉の指先はそこでしばし逡巡した。
 瞑想爺の喚き声は、いつの間にかおさまっている。息詰まる数秒の静寂の後、出し抜けに隣室の扉が恫喝するような響きを伴って開閉された。黒シャツどもが戻ってきたに違いない。一時の自由が、再び猿轡をかまされたようであった。
 勇吉は、欲望の動きを止める。香夜子も、これに習った。不自然にからだを合わせたまま、隣室の物音に神経を集中する。何も聞こえない。聞こえてくるのは、二人の息遣いだけ。しかし、沈黙はいっそ圧迫的な脅威のようであった。それでもうすぎぬ一枚を隔てた香夜子のぬくもりが、改めて隔靴掻痒の欲望をそそる。ただし、もしこのまま自然の流れに身を任せたなら、どういうことになるのか。まさに、その絶頂に壁が割れ、あの黒シャツどもが乱入してくる気がするのだ。
 頑是無い性欲が、溜め息をつく。ジッパーに阻止された、間の抜けた性欲。香夜子は、ずっと目を閉じている。勇吉も目を閉じた。緊張が一気にほどけ、仕事の疲労感が快い睡魔のマントになって……
      
      

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 カーテンを透過する光の色で、勇吉は目が覚めた。その煙るような薄さから見て、普段ならば夢の仙境を彷徨っている早朝のようであった。首を左に捩じると、ついそこに香夜子の寝顔が窺える。二人とも寝具の上で「気を付け」の号令直後よろしく律義に四肢を伸ばしていて、触れ合っているのは勇吉の左手と、これと重なり合った香夜子の右手だけという微妙さであった。
 酔っていたわけでもないのに、息を吸い込んだ感触の中、自分がジーンズを脱いでいることに気がついた。それでも、記憶は水底(みなそこ)まで透き通っていて、香夜子を抱いた覚えも、その確たる証しとて見いだされない。
 もしかしたら、夢の仙境の、雲の蓐(しとね)で結ばれたのだろうか。右手を広げるように伸ばしてあたりを探ってみれば、ジーンズは容易く手に触れた。布団の中に引きずり込み、こそばゆい気分のままにこれを身につけ、つい上体を起こしたとたん、毛布がずれて隠れていた香夜子の半身が覗いた。いまだ眠ってはいたが、左の掌で同じ側の乳房を押さえるような姿態をとっている。スリップの肩ひもが大きく落ち、ブラジャーもずり落ちていて、もし掌を離せば乳房が露になるは必定であった。掌には自らを慰めるけしきの、少しばかり押し上げ気味の力が加わっていて、柔らかい膨らみが強調されている。ちよっとと艶めかしいふぜいながら、その寝顔は裏腹の幼さを残し、わずかに引き上げられた口元には清潔感のある気品が漂った。それとも、いっそ官能に悶えた身の、後朝の寛ぎなのだろうか。勇吉は、再び透明な記憶の泉を覗き込んだ。水底(みなそこ)には縺れ合う藻は見えず、何やら清澄なリンのような音が響いてくるようであった。
 香夜子の無防備な寝顔に改めて目を落としながら、勇吉は不意に切なくなった。掛け替えのないおんな。ふと、こころに呟いてから目を閉じ、そのまま顔を振り上げて無造作に目を開けた。

 ――遠くに、手招きするよう開け放たれた扉がぼんやりと見える。白い霞が立ち籠めていて、その霞はゆっくりと対流するように流れ、扉の向こうの奥行きをはっきりと示しているようであった。
「『烏有の扉』だ。今なら、行ける!」
 勇吉は思わず声を上擦らすと、からだを一気に起こし、視線をその方に固定したまま立ち上がった。香夜子も目を覚ましたらしく、
「こっちを見ないで。そのまま歩くのよ。わたしも服を着て、すぐ後から行く。いいわね、絶対に振り返っちゃだめよ」
 勇吉はゆっくりと歩を進める。じきに、あたり一面に霞が立ち籠め、ここがアパートの一室であることも、開いた扉が実は一枚のケント紙にすぎぬという意識もすっかりと失せている。
 ややあって、香夜子が背後から腕を絡めてくる。二人はそのまま、『烏有の扉』に踏み込んで……
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